ケーテ・コルヴィッツの画業
宮本百合子
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)確《しっか》り
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)塗ること[#「塗ること」に傍点]、
−−
ここに一枚のスケッチがある。のどもとのつまった貧しい服装をした中年の女がドアの前に佇み、永年の力仕事で節の大きく高くなった手で、そのドアをノックしている。貧しさの中でも慎しみぶかく小ざっぱりとかき上げられて、かたく巻きつけられている髪。うつむいている顔は、やっと決心して来た医者のドアの前で、自分の静かに重いノックにこたえられる内からの声に耳を傾けているばかりでなく、その横顔全体に何と深い生活の愁いが漲っていることだろう。彼女は妊娠している。うつむきながら、決心と期待と不安とをこめて一つ二つと左手でノックする。右の手は、重い腹をすべって垂れ下っている粗いスカートを掴むように握っている。
「医者のもとで」という題のこのスケッチには不思議に心に迫る力がこもっている。名もない、一人の貧しい、身重の女が全身から滲み出しているものは、生活に苦しんでいる人間の無限の訴えと、その苦悩の偽りなさと、そのような苦しみは軽蔑することが不可能であるという強い感銘とである。そしてさらに感じることは、ケーテ・コルヴィッツはここにたった一人の、医者のドアをノックする女を描きだしているだけではないということである。ケーテはモデルへつきない同感を、リアリスティックなつよい線と明暗とで、確《しっか》り感傷なく描き出して、忘れ難い人生の場面は到るところに在るということを示しているのである。
世界の美術史には、これまでに何人かの傑《すぐ》れた婦人画家たちの名が記されている。ローザ・ボヌールの「馬市」の絵だの、「出あい」という作品を残して二十四歳の生涯を終ったマリア・バシュキルツェフ。灰色と薄桃色と黒との諧調で独特に粋な感覚の世界をつくったマリー・ローランサン。しかし、ケーテ・コルヴィッツの存在はドイツの誇りであるばかりでなく、その生涯と労作とは、決してただ画才の豊かであった一人の婦人画家としての物語に尽しきれない。ケーテは何かの意味で、絵画という芸術の船を人生と歴史の大海へ漕ぎすすめた女流選手の一人なのである。
ケーテは一八六七年(慶応三年)七月八日、東部プロイセンのケーニヒスベルクに生れた。父をカール・シュミット、母をケーテ・ループといい、娘ケーテの生れた時代のシュミット一家は、ケーニヒスベルクの左官屋の親方として、なかなか大規模の生活を営んでいた。
父親のカール・シュミットという人は、ありふれた左官屋の親方ではなかった。若い時代に大変苦心して大学教育をうけ、判事試補にまでなったのだが、当時ビスマークを首相として人民を圧迫していたウィルヘルム二世の官吏として人民に対することは、自分の良心にそむくことを知って、職をすて、改めて左官屋の仕事を学んだ。左官屋といっても、ドイツではただ壁をぬるばかりが仕事ではなくて、煉瓦を積んで家を建てる仕事や、その家々の装飾の浮彫石膏細工をつくるという風な美術的技量のいることも、やはり左官の職分にこめていたものらしく思われる。
カールのそのようなはっきり良心にしたがって生きる人柄と人生に対する態度とは、誰でも真似られるという種類のものでなかった。このカールの生き方は、妻であったケーテの家の伝統とも深い精神上のつながりを持ったものであった。ケーテの父はユリウス・ループといって、ドイツにおける最初の自由宗教の牧師であった。知られているとおり、ウィルヘルム二世はビスマークの扶けをもって、正義と皇帝の絶対権とを結びつけて人民にのぞんだが、十九世紀前半のその頃の欧州は近代社会の経済事情の飛躍とともにウィルヘルム、ビスマークのその政治につよく反対していた。文学においては、ドイツのハイネ、ロシアのツルゲーネフなどが新時代の黎明を語った時代で、一般の人々の自主独立的な生活への要望はきわめて高まっていた。ウィルヘルム二世は一八四七年、国内に信仰の自由を許す法律を公布した。ところが、僅か二年ばかりで一時的なその寛大な方法は急に反対の方向に働き出し、一八四九年からケーニヒスベルクの町だけでも何百回となく集会が禁止され、教会や学校が閉鎖され、国外へ追放される人たちが生じた。
自由宗教の牧師であったユリウス・ループが、この信頼できない権力のためにこうむった災難は、おびただしいものであった。このような閲歴をもつユリウスの娘ケーテが良人として選んだカール・シュミットが、宗教の上で同じ自由宗教の見解をもつ青年であったことはむしろ当然であったし、その人柄が鋭敏な良心に貫かれている人であったこともうなずける。精神の活動力のさかんな祖父と両親とに祝福されてケーテの誕生はもたらされたわけである。
ケーニヒスベルクの町を流れるプレーゲル河に沿う広い家で、幼い娘ケーテは兄と一緒に育った。重く荷を積んで、暗い煉瓦船が河を辷って行く。ケーテの幼い心に印象づけられた最初のリズミカルな生活の姿はその船の情景であった。屋敷のなかの二つの空地の間に建物があって、そこが石膏の型をこしらえる仕事場になっていた。型からぬきとられてその中に置かれているさまざまの石膏の像は、いつもシュミットの小さな兄妹の好奇心と空想とを刺戟した。
お母さんのケーテがまた絵心をもっていた。子供たちによく古今の大家の絵を模写してやった。そのような環境の間で十四歳になったとき、ケーテに、初めて石膏について素描することを教えたのが、ほかならぬシュミットの仕事場に働いていた一人の物わかりのいい銅版職人であったという事実は、私たちに深い感興を与える。ちょっとみれば何でもないようなこの一つの事実がもっている意味は豊富であると思う。その銅版職人の聰明さや、少女の才能を発見した洞察の正しさが、そこに語られているばかりでない。親方シュミットの家庭の日常の空気が、職人たちをもちゃんとした独立市民として、礼儀と尊敬とをもって待遇する習慣であったことを物語っている。親方とその子供らと、働いている人々の間に間違った身分の差別が存在しなかった。従って小さい息子や娘ケーテの心の成長は、幼年時代から額に汗して勤労する人々とともに過ごされたことを示している。後年ケーテが正直な働く人々の生活の最も忠実な描き手となったことは、偶然ではなかったのである。
その職人が、引つづいてケーテに銅版画をつくる技術の手ほどきもした。しかし間もなくケーテがその職人から教わることは種切れとなった。父シュミットは十七歳の娘をベルリンまで絵の勉強に旅立たせた。ベルリンには兄息子が勉強に出ていたのであった。
ケーテがベルリンで師事した教師はシャウフェルというスイス人で、この人はケーテの才能を愛し、教師として与え得る限りのものを与えた。若い婦人画学生としてケーテは実に熱心で、生きているモデルを描くことに長足の進歩を示した。シャウフェルは、リアリストとしてケーテの生涯のために重要な基礎を与えた教師の一人であったと考えられる。
生きたモデルについて熱心な研究を続ける一方、若いケーテがこのベルリン時代にドイツのシムボリズムの画家として、その構想の奇抜なことや、色感が特別ロマンティックな点などで人々の注目をひいていたクリンガーの影響をも強く受けたことは注目される。ケーテのある作品をシャウフェルがクリンガーの絵のようだといって感歎したということを伝記者がつたえている。おそらくそれは、クリンガーの作品にある人間の気高い感情を現わそうとする傾向ににている点をさしたのであろう。
クリンガー(一八五七―一九二〇)の芸術に畏敬と愛を感じながらも、その一つ一つを模写することは自分の真の成長にとって危険なことだと直感していたことは、ケーテの画家としての本質的な健康さであったと思う。
やがて予定の伯林《ベルリン》滞在の期限がすんで、ケーテ・シュミットは故郷のケーニヒスベルクへかえってきた。シャウフェルは、父親に、ケーテが完成するまで自分の画塾に止るようにすすめたが、それが実現しないうちに、シャウフェル自身がイタリーのフローレンス市へ去らなければならないことになった。
「彼の辛い人間としての運命の道を終るべく」フローレンスに去ったといわれている。
ケーテは、ケーニヒスベルクの生れた家で肖像だの河港に働く労働者の姿だのを描きはじめた。今まで鉛筆でだけ描いていたケーテは、筆を使いはじめたが、そのときの教師はエミール・ナイデという故郷の町の芝居がかりの田舎画家であった。
そういうあぶなっかしい教師しか町では見出し得ない事に困惑した父親が娘の願をきいて、今度はミュンヘン市に修業にやった。このことは、ケーテの芸術に大きい意味をもたらした。当時のミュンヘン市は、ドイツのどの都市よりも芸術に対して開放的で、進歩を愛する空気をもっていた。その時分すでにミュンヘン市の美術界は、フランス印象派の影響が支配的になっていた。ミュンヘンで催された国際美術展をみて、ケーテはドイツの従来の絵画が現代生活をとり入れることと、新鮮な色彩感を導き入れるという点では、はるかに他国の画家よりおくれていることを痛感した。ケーテが若い美術家たちと「コムポニール倶楽部」をこしらえたのもこのミュンヘン修学時代であるし、自分の芸術的表現はスケッチや銅版画に最もよく発揮されることを自覚して、塗ること[#「塗ること」に傍点]、即ち油絵具の美しく派手な効果を狙うことは、自分の本来の領域でないという確信を得たのも同じ時代のことである。
一八九〇年、再び故郷にかえって来た二十三歳のケーテは、一つのアトリエをもち、若い婦人画家には珍らしい黒と白との世界に、ケーニヒスベルクの貧しい人々や港の人々の生活を再現しはじめた。これらの人々の生活は、小さい時分からケーテの身近なものであったと同時に、その虚飾のない生活にあらわれる刻々の生活の姿は、ケーテの創作慾が誘われずにはいない力をもっていた。ケーテは後年、次のようにいっている。「港に働く婦人たちは、社交上の因習のためにあらゆる言動を狭ばめられている上流の貴婦人たちよりも、その姿、その本質をより多く私に示してくれました。彼女たちは、その手を、その脚を、その髪を見せてくれます。着物をとおして肉体をみせてくれます。そして感情の表現も遙かに率直です」と。
兄の友人であったドクトル・カール・コルヴィッツとケーテが結婚したのは一八九一年であった。良人とともにベルリンに移ったケーテは、それからはずっと労働者街のあるノルデンに住むようになった。カール・コルヴィッツというドクトルはつつましい生活をする勤労者のためにノルデンにあった月賦診療所に働くことを、科学者としての使命と考えていた人で、真に労働者の医者であろうとした人であった。
父シュミットは、ケーテの幼い時からその才能を認め、画家として成長するためにはすべての助力を惜しまずに来た。けれど、いよいよこの期待すべき娘が、若い医師コルヴィッツと結婚するときまったとき、ひとつの忠言を与えた。それは妻となり母となるためには絵を捨てよ、という言葉であった。ケーテはその父の忠言に対して何と答えたのであったろうか。それは伝えられていない。けれども、その時ケーテの心には日頃「才能というものは一つの義務である」という叡智のこもったいいあらわし方で、くりかえし語っていたお祖父さんユリウス・ループの言葉が、最も親切な力として甦って来たのではなかったろうか。「才能というものは一つの義務である」。才能というものが与えられてあるならば、それは自分のものであって、しかも私のものではない。それを発展させ、開花させ人類のよろこびのために負うている一つの義務として、個人の才能を理解したループ祖父さんの雄勁な気魄は、その言葉でケーテを旧来の家庭婦人としての習俗の圧力から護ったばかりでなく、気力そのものとして孫娘につたえた。多難で煩雑な女の生活の現実の間で、
次へ
全3ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング