祖父の箴言は常にケーテの勇気の源泉となったように思える。
 事実、ケーテ・シュミットはケーテ・コルヴィッツとなっても画業は決して棄てなかった。それどころか、良人カールの良心に従った生活態度とその仕事ぶりとは、婦人画家としてケーテの見聞をひろく深くし、人間生活への理解を大きくした。そしてその素質に一層よいものを加えたことが窺《うかが》える。ケーテの天性にそなわっていた思いやり、洞察、誠意は、良人カールの月賦診療所をめぐって展開される赤裸々な社会生活の絵図と、おびただしい肉体と精神とに負わされている階級社会の重荷とを、苦しみにゆがんでいる顔の一つ一つの皺に目撃することとなったのであった。
 少女時代から育って来た環境から、自然ケーテにとって親密なモデルであった勤労する人々の生活が、真に社会的な意味で理解されはじめたのも、おそらくはカールと結婚した後の成長の結果ではなかったろうか。結婚後六年目の一八九七年にケーテの初めての版画集「織匠」ができ上った。結婚したら絵を止めるようにと忠告したケーニヒスベルクの父シュミットのところへ、ケーテはその画を見せに行った。父シュミットは、折から庭に出ていた妻を呼びながら「御覧! ケーテの描いたものを! ケーテの描いたものを御覧!」と悦んで家を駆けまわった。その姿をケーテ自身ふかい感動をもって語っている。
 最も早くからケーテの才能を認めて、そのために一部の者からは脳軟化症だなどと悪罵された批評家エリアスは、心をこめて、この連作が「確りしたつよい健康な手で、怖ろしい真実をもぎとって来たような像である」ことを慶賀した。
 展覧会の委員は満場一致で、このハウプトマンの「織匠」を題材としたケーテの作品に銀牌をおくることを決議した。が、圧制者であるウィルヘルム二世は、労働者である織匠たちの生活の辛苦と、そこから解放を求めた闘いを題材とするこの全く新しい版画集に、賞を与える決議を却下した。
 一九〇八年に発表した版画の連作「農民戦争」で、ケーテ・コルヴィッツは「ヴィラ・ロマナ賞」を獲得した。一年間フローレンスのヴィラ・ロマナに無料で滞在することのできる賞であった。この連作の題材は、ドイツの農民が、動物のような扱いをうける生活に耐えかねて十六世紀に各地で叛乱をおこし多くの犠牲を出した、その悲劇からとられた。
 このルネッサンス時代の芸術の古都フローレンスの逗留が、四十三歳であったケーテにどのような芸術上の収穫を与えただろうか。一九一〇年にこの旅行から帰ってから、第一次欧州大戦のはじまる迄の四年ばかり、ケーテは全く沈黙した。
 六枚つづきの版画「織匠」は、ケーテ・コルヴィッツの代表的な大作であるばかりでなく、彼女の複雑な資質をそのすみずみまで示している作品として、歴史的な価値をもっている。
 ケーテが、ベルリンの自由劇場に上演されたハウプトマンの「織匠」を観たのは一八九三年(明治二十六年)二月のことであった。当時ドイツは、近代資本主義の国家として生産上の立おくれを急速にとり返そうとする貪慾な資本家、地主に対して、労働者の組織とその運動とが全国にひろまり、ビスマークのきめた「社会主義者弾圧法」もついに一八九〇年で惨酷な権威を失わなければならなくなっていた。マルクスの共産党宣言は一八四八年につくられていたし、ベーベルは「婦人論」を一八七九年に書いていた。ハウプトマンの「織匠」はドイツのシレジアにおいて、国家、資本家、地主と三重の重荷を負わされている「織匠」が耐えかねて反抗した、その事実を主題としたものであった。社会が自由と解放を求める高揚した雰囲気の中で、良人カールとともに、朝から夜まで勤労しながら、ぬけきれない不幸に置かれている多数の人々が、生きるためにどう闘っているかということを目撃しているケーテ、そして、その感情をともに感情としているケーテにとって、「織匠」は震撼する感銘を与えたと思われる。
 版画集「織匠」ができ上ったのはその芝居を観てから四年たった一八九七年である。ケーテはその間にベルリン郊外に住んでいたハウプトマンにも一度会いに行ったりしている。「織匠」の作者ハウプトマンがケーテからうけた印象は、露のあるバラの花のように新鮮な若い女性であるということと、非常につつましく自分の芸術については一言も語らず、しかもどこかに人の注意をひくものをもっている婦人であった、といわれている。
「織匠」を観て深く刻まれた感動を、ケーテが四年の間じっと持ち続けて、ついに作品にまとめたということは、ケーテという婦人画家の天質の一つの特質を語るものではないだろうか。モティーフを、自身の感情の奥深くまで沈潜させ、すっかりわがものとしきらなければ作品として生み出さない画家、決してただ与えられた刺戟に素早く反応して自分の空想に亢奮したままに作画してゆくような素質の芸術家ではなかったこと、これはケーテにとって最も貴重な特質の一つである重厚さであった。
 六枚つづきの「織匠」の後半、とくに第三枚目「相談」は、おどろくべき力でそこにいる四人の男たちの全生活の本質とその精神と肉体とが示している歴史的な立場を描き出している。灯の下に集められた一つ一つの顔、大きいその肩、がんじょうなその手を、画家は、情景の核心にふれて、内部から描いている。明暗の技術も大胆で巧妙で、ケーテのリアリストとしての技術の高い峯が示されているのである。
 興味あることは、この「織匠」にも、強靭なリアリズムの手法と並んで、クリンガーの影響と言われたケーテのシムボリズムがところどころに現れていることである。死の象徴として骸骨が「織匠」第二枚目にあらわれているばかりでなく、「死と女」その他後期の画面にも使われている。
 ロシアでは有名な血の日曜日の行われた一九〇五年に、ケーテの描いた「鍬を牽く人」などの扱い方もシムボリックなところがあってどこかムンクを思わせる。そして、このケーテの内部に交流しているシムボリックな傾向が婦人画家としての彼女に、フライリヒラアツの詩やハウプトマンなどの文学作品から、モティーフを刺戟された題材の版画集を創造させた。しかも芸術作品として彼女のそれらの製作を傑出させているのは、ケーテの確かで深い現実観察からもたらされた写実的な手法である事実は、私たちに多く考えさせるものを持っている。ケーテが民衆の生活を描く画家として属していた歴史の世代が、ドイツにおける社会民主党の擡頭期とその急速な分裂の時代であったことはケーテの芸術のこの特徴と関係が深い。
 ケーテが日常生活から題材をとって描き出しているスケッチには、感動させずにおかない真実がこもっている。ある場合にはむしろ連作版画よりも、もっとみなに愛され高く評価されている意味もわかる。
 貧困、失業、働く妻、母子などの生活のさまざまな瞬間をとらえて描いているケーテの作品を一枚一枚と見てゆくと、この婦人画家がどんなに自分を偽ることができない心をもっていたかを痛感する。何か感動させる光景に出会った時、または心をとらえる人の表情に目がとまった時、ケーテはヨーロッパの婦人にありがちな仰々しい感歎の声ひとつ発せず、自分のすべての感覚を開放し、そこに在る人間の情緒の奔流と、その流れを物語っている肉体の強い表情とを感じとり受け入れたにちがいない。さもなくて、どうして「音楽に聴き入る囚人たち」のこのような内心のむき出されている恍惚の顔つき肩つき、「歎願者」の老婆の、あの哀訴にみちた瞳の光りが描けたろう。
 ケーテのスケッチに充ちている偽りなさと生活の香の色の濃厚さは、私たちにゴーリキイの「幼年時代」「私の大学」「どん底」などの作品にある光と陰との興味つきない錯綜を思いおこさせる。また魯迅が中国の民衆生活に対して抱いた深い愛と洞察と期待とに共通なもののあることをも感じさせる。そして、これらの誠実な芸術家たちが、ゴーリキイはケーテより一つ年下であり、魯迅は十四歳若く、ほぼ共通な文化の世代を経て生き、たたかい、世界芸術の宝となっていることも注目される。
 魯迅は一九三五年ごろに、中国の新しい文化の発展のために多大の貢献をした一つの仕事として、ケーテ・コルヴィッツの作品集を刊行した。その中国版のケーテの作品集には、ケーテの国際的な女友達の一人であるアグネス・スメドレイの序文がつけられた。スメドレイは進みゆく中国の真の友である。そしてアグネス・スメドレイの自伝風な小説「女一人大地を行く」の中に描かれているアメリカの庶民階級の娘としての少女時代、若い女性として独立してゆく苦闘の過去こそ、それの背景となった社会がアメリカであるとドイツであるとの違いにかかわらず、ケーテの描く勤労する女性の生活のまともな道と一つのものであることも肯ける。私たちにとってさらに今日感銘深いのは日本において、スメドレイの「女一人大地を行く」を初めて日本語に翻訳して、日本の婦人に一つのゆたかな力をおくりものとしてくれた人が、ほかならぬ尾崎秀実氏であったことである。
 一九一四年に第一次欧州大戦が始まった。ケーテはその秋、次男を戦線で失った。この大戦の期間から、それにひきつづくドイツの人々の極度に困窮した不幸になった時代、フローレンス旅行以来しばらく沈黙していたケーテの創作は再び開始された。もう六十歳に近づいて、妻として母として重ねたかずかずの悲喜の経験とますます暗い雲に光を遮られた時代に生きる人々への情熱とで、ケーテは「戦争」(一九二〇―二三)「勤労する人々」(一九二五)を創った。五十七歳の時のケーテの自画像には、しずかな老婦人の顔立のうちに、刻苦堅忍の表情と憐憫の表情と、何かを待ちかねているような思いが湛えられている。
 晩年のケーテの作品のあるものには、シムボリックな手法がよみがえっている。が、そこには初期の作品に見られたようなややありふれた観念の象徴はなくて、同じ底深い画面の黒さにしろ、ケーテはその暗さの中に声なき声、目ざまされるべき明るさの大きさ、集団の質量の重さを感得している。
 一九二七年にケーテ・コルヴィッツの六十歳の祝賀が盛大に行われた。彼女の版画はその材料として都会のどぶ板に使う石版を使うからといってウィルヘルム二世から「どぶ石芸術の画家」といわれたケーテは、今やドイツの誇りとして、あらゆる方面からのぎょうぎょうしい新たな称賛と敬意とを表された。
 同時に、ケーテの芸術が真に勤労者生活を描いているからこそ生じている社会的な迫力を、ぼんやりとただ愛という宗教的なものとして解釈しようとする批評家も一部にあらわれた。穏かな言葉ではあるが、ケーテは自身でそういう評価を拒んでいる。
 一九二九年の世界大恐慌から後一九三三年ナチス独裁が樹立するころ、ケーテの生活はどんなふうであったのだろう。シュペングラーが「婦人は同僚でもなければ愛人でもなく、ただ母たるのみ」という標語を示した時、母たるドイツの勤労女性の生活苦闘の衷心からの描き手であったケーテ・コルヴィッツは、どんな心持で、この侵略軍人生産者としてだけ母性を認めたシュペングラーの号令をきいただろうか。その頃から日本権力も侵略戦争を進行させていてナチス崇拝に陥った。ケーテの声は私たちに届かない。
 ケーテには記念碑的な作品がないといわれている。ローザ・ボヌールにおける「馬市」のような作品がないという限りで、それは当っているのかもしれない。けれども、あらゆる世代が人間生活の進歩についてまじめに思いをめぐらしたとき、その一歩のために「才能は一つの義務である」ことをその画筆で示したケーテ・コルヴィッツを忘却することは不可能である。芸術家としてのそのような存在が記念碑的でなかったといい得る者はないはずである。[#地付き]〔一九四一年三月。一九四六年六月補〕

 追記
 一九五〇年二月、新海覚雄氏によって、「ケーテ・コルヴィッツ――その時代、人、芸術」という本があらわされた。
 一九三三年、ナチスが政権をとってから第二次大戦を通じて、ケーテはどうしていただろうというわたしたちの知りたい点が、新海氏によって語ら
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