一八九〇年、再び故郷にかえって来た二十三歳のケーテは、一つのアトリエをもち、若い婦人画家には珍らしい黒と白との世界に、ケーニヒスベルクの貧しい人々や港の人々の生活を再現しはじめた。これらの人々の生活は、小さい時分からケーテの身近なものであったと同時に、その虚飾のない生活にあらわれる刻々の生活の姿は、ケーテの創作慾が誘われずにはいない力をもっていた。ケーテは後年、次のようにいっている。「港に働く婦人たちは、社交上の因習のためにあらゆる言動を狭ばめられている上流の貴婦人たちよりも、その姿、その本質をより多く私に示してくれました。彼女たちは、その手を、その脚を、その髪を見せてくれます。着物をとおして肉体をみせてくれます。そして感情の表現も遙かに率直です」と。
兄の友人であったドクトル・カール・コルヴィッツとケーテが結婚したのは一八九一年であった。良人とともにベルリンに移ったケーテは、それからはずっと労働者街のあるノルデンに住むようになった。カール・コルヴィッツというドクトルはつつましい生活をする勤労者のためにノルデンにあった月賦診療所に働くことを、科学者としての使命と考えていた人で、真に労働者の医者であろうとした人であった。
父シュミットは、ケーテの幼い時からその才能を認め、画家として成長するためにはすべての助力を惜しまずに来た。けれど、いよいよこの期待すべき娘が、若い医師コルヴィッツと結婚するときまったとき、ひとつの忠言を与えた。それは妻となり母となるためには絵を捨てよ、という言葉であった。ケーテはその父の忠言に対して何と答えたのであったろうか。それは伝えられていない。けれども、その時ケーテの心には日頃「才能というものは一つの義務である」という叡智のこもったいいあらわし方で、くりかえし語っていたお祖父さんユリウス・ループの言葉が、最も親切な力として甦って来たのではなかったろうか。「才能というものは一つの義務である」。才能というものが与えられてあるならば、それは自分のものであって、しかも私のものではない。それを発展させ、開花させ人類のよろこびのために負うている一つの義務として、個人の才能を理解したループ祖父さんの雄勁な気魄は、その言葉でケーテを旧来の家庭婦人としての習俗の圧力から護ったばかりでなく、気力そのものとして孫娘につたえた。多難で煩雑な女の生活の現実の間で、祖父の箴言は常にケーテの勇気の源泉となったように思える。
事実、ケーテ・シュミットはケーテ・コルヴィッツとなっても画業は決して棄てなかった。それどころか、良人カールの良心に従った生活態度とその仕事ぶりとは、婦人画家としてケーテの見聞をひろく深くし、人間生活への理解を大きくした。そしてその素質に一層よいものを加えたことが窺《うかが》える。ケーテの天性にそなわっていた思いやり、洞察、誠意は、良人カールの月賦診療所をめぐって展開される赤裸々な社会生活の絵図と、おびただしい肉体と精神とに負わされている階級社会の重荷とを、苦しみにゆがんでいる顔の一つ一つの皺に目撃することとなったのであった。
少女時代から育って来た環境から、自然ケーテにとって親密なモデルであった勤労する人々の生活が、真に社会的な意味で理解されはじめたのも、おそらくはカールと結婚した後の成長の結果ではなかったろうか。結婚後六年目の一八九七年にケーテの初めての版画集「織匠」ができ上った。結婚したら絵を止めるようにと忠告したケーニヒスベルクの父シュミットのところへ、ケーテはその画を見せに行った。父シュミットは、折から庭に出ていた妻を呼びながら「御覧! ケーテの描いたものを! ケーテの描いたものを御覧!」と悦んで家を駆けまわった。その姿をケーテ自身ふかい感動をもって語っている。
最も早くからケーテの才能を認めて、そのために一部の者からは脳軟化症だなどと悪罵された批評家エリアスは、心をこめて、この連作が「確りしたつよい健康な手で、怖ろしい真実をもぎとって来たような像である」ことを慶賀した。
展覧会の委員は満場一致で、このハウプトマンの「織匠」を題材としたケーテの作品に銀牌をおくることを決議した。が、圧制者であるウィルヘルム二世は、労働者である織匠たちの生活の辛苦と、そこから解放を求めた闘いを題材とするこの全く新しい版画集に、賞を与える決議を却下した。
一九〇八年に発表した版画の連作「農民戦争」で、ケーテ・コルヴィッツは「ヴィラ・ロマナ賞」を獲得した。一年間フローレンスのヴィラ・ロマナに無料で滞在することのできる賞であった。この連作の題材は、ドイツの農民が、動物のような扱いをうける生活に耐えかねて十六世紀に各地で叛乱をおこし多くの犠牲を出した、その悲劇からとられた。
このルネッサンス時代の芸術の古都フローレン
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