親とに祝福されてケーテの誕生はもたらされたわけである。
 ケーニヒスベルクの町を流れるプレーゲル河に沿う広い家で、幼い娘ケーテは兄と一緒に育った。重く荷を積んで、暗い煉瓦船が河を辷って行く。ケーテの幼い心に印象づけられた最初のリズミカルな生活の姿はその船の情景であった。屋敷のなかの二つの空地の間に建物があって、そこが石膏の型をこしらえる仕事場になっていた。型からぬきとられてその中に置かれているさまざまの石膏の像は、いつもシュミットの小さな兄妹の好奇心と空想とを刺戟した。
 お母さんのケーテがまた絵心をもっていた。子供たちによく古今の大家の絵を模写してやった。そのような環境の間で十四歳になったとき、ケーテに、初めて石膏について素描することを教えたのが、ほかならぬシュミットの仕事場に働いていた一人の物わかりのいい銅版職人であったという事実は、私たちに深い感興を与える。ちょっとみれば何でもないようなこの一つの事実がもっている意味は豊富であると思う。その銅版職人の聰明さや、少女の才能を発見した洞察の正しさが、そこに語られているばかりでない。親方シュミットの家庭の日常の空気が、職人たちをもちゃんとした独立市民として、礼儀と尊敬とをもって待遇する習慣であったことを物語っている。親方とその子供らと、働いている人々の間に間違った身分の差別が存在しなかった。従って小さい息子や娘ケーテの心の成長は、幼年時代から額に汗して勤労する人々とともに過ごされたことを示している。後年ケーテが正直な働く人々の生活の最も忠実な描き手となったことは、偶然ではなかったのである。
 その職人が、引つづいてケーテに銅版画をつくる技術の手ほどきもした。しかし間もなくケーテがその職人から教わることは種切れとなった。父シュミットは十七歳の娘をベルリンまで絵の勉強に旅立たせた。ベルリンには兄息子が勉強に出ていたのであった。
 ケーテがベルリンで師事した教師はシャウフェルというスイス人で、この人はケーテの才能を愛し、教師として与え得る限りのものを与えた。若い婦人画学生としてケーテは実に熱心で、生きているモデルを描くことに長足の進歩を示した。シャウフェルは、リアリストとしてケーテの生涯のために重要な基礎を与えた教師の一人であったと考えられる。
 生きたモデルについて熱心な研究を続ける一方、若いケーテがこのベルリン時代にドイツのシムボリズムの画家として、その構想の奇抜なことや、色感が特別ロマンティックな点などで人々の注目をひいていたクリンガーの影響をも強く受けたことは注目される。ケーテのある作品をシャウフェルがクリンガーの絵のようだといって感歎したということを伝記者がつたえている。おそらくそれは、クリンガーの作品にある人間の気高い感情を現わそうとする傾向ににている点をさしたのであろう。
 クリンガー(一八五七―一九二〇)の芸術に畏敬と愛を感じながらも、その一つ一つを模写することは自分の真の成長にとって危険なことだと直感していたことは、ケーテの画家としての本質的な健康さであったと思う。
 やがて予定の伯林《ベルリン》滞在の期限がすんで、ケーテ・シュミットは故郷のケーニヒスベルクへかえってきた。シャウフェルは、父親に、ケーテが完成するまで自分の画塾に止るようにすすめたが、それが実現しないうちに、シャウフェル自身がイタリーのフローレンス市へ去らなければならないことになった。
「彼の辛い人間としての運命の道を終るべく」フローレンスに去ったといわれている。
 ケーテは、ケーニヒスベルクの生れた家で肖像だの河港に働く労働者の姿だのを描きはじめた。今まで鉛筆でだけ描いていたケーテは、筆を使いはじめたが、そのときの教師はエミール・ナイデという故郷の町の芝居がかりの田舎画家であった。
 そういうあぶなっかしい教師しか町では見出し得ない事に困惑した父親が娘の願をきいて、今度はミュンヘン市に修業にやった。このことは、ケーテの芸術に大きい意味をもたらした。当時のミュンヘン市は、ドイツのどの都市よりも芸術に対して開放的で、進歩を愛する空気をもっていた。その時分すでにミュンヘン市の美術界は、フランス印象派の影響が支配的になっていた。ミュンヘンで催された国際美術展をみて、ケーテはドイツの従来の絵画が現代生活をとり入れることと、新鮮な色彩感を導き入れるという点では、はるかに他国の画家よりおくれていることを痛感した。ケーテが若い美術家たちと「コムポニール倶楽部」をこしらえたのもこのミュンヘン修学時代であるし、自分の芸術的表現はスケッチや銅版画に最もよく発揮されることを自覚して、塗ること[#「塗ること」に傍点]、即ち油絵具の美しく派手な効果を狙うことは、自分の本来の領域でないという確信を得たのも同じ時代のことである。

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