スの逗留が、四十三歳であったケーテにどのような芸術上の収穫を与えただろうか。一九一〇年にこの旅行から帰ってから、第一次欧州大戦のはじまる迄の四年ばかり、ケーテは全く沈黙した。
六枚つづきの版画「織匠」は、ケーテ・コルヴィッツの代表的な大作であるばかりでなく、彼女の複雑な資質をそのすみずみまで示している作品として、歴史的な価値をもっている。
ケーテが、ベルリンの自由劇場に上演されたハウプトマンの「織匠」を観たのは一八九三年(明治二十六年)二月のことであった。当時ドイツは、近代資本主義の国家として生産上の立おくれを急速にとり返そうとする貪慾な資本家、地主に対して、労働者の組織とその運動とが全国にひろまり、ビスマークのきめた「社会主義者弾圧法」もついに一八九〇年で惨酷な権威を失わなければならなくなっていた。マルクスの共産党宣言は一八四八年につくられていたし、ベーベルは「婦人論」を一八七九年に書いていた。ハウプトマンの「織匠」はドイツのシレジアにおいて、国家、資本家、地主と三重の重荷を負わされている「織匠」が耐えかねて反抗した、その事実を主題としたものであった。社会が自由と解放を求める高揚した雰囲気の中で、良人カールとともに、朝から夜まで勤労しながら、ぬけきれない不幸に置かれている多数の人々が、生きるためにどう闘っているかということを目撃しているケーテ、そして、その感情をともに感情としているケーテにとって、「織匠」は震撼する感銘を与えたと思われる。
版画集「織匠」ができ上ったのはその芝居を観てから四年たった一八九七年である。ケーテはその間にベルリン郊外に住んでいたハウプトマンにも一度会いに行ったりしている。「織匠」の作者ハウプトマンがケーテからうけた印象は、露のあるバラの花のように新鮮な若い女性であるということと、非常につつましく自分の芸術については一言も語らず、しかもどこかに人の注意をひくものをもっている婦人であった、といわれている。
「織匠」を観て深く刻まれた感動を、ケーテが四年の間じっと持ち続けて、ついに作品にまとめたということは、ケーテという婦人画家の天質の一つの特質を語るものではないだろうか。モティーフを、自身の感情の奥深くまで沈潜させ、すっかりわがものとしきらなければ作品として生み出さない画家、決してただ与えられた刺戟に素早く反応して自分の空想に亢奮したままに作画してゆくような素質の芸術家ではなかったこと、これはケーテにとって最も貴重な特質の一つである重厚さであった。
六枚つづきの「織匠」の後半、とくに第三枚目「相談」は、おどろくべき力でそこにいる四人の男たちの全生活の本質とその精神と肉体とが示している歴史的な立場を描き出している。灯の下に集められた一つ一つの顔、大きいその肩、がんじょうなその手を、画家は、情景の核心にふれて、内部から描いている。明暗の技術も大胆で巧妙で、ケーテのリアリストとしての技術の高い峯が示されているのである。
興味あることは、この「織匠」にも、強靭なリアリズムの手法と並んで、クリンガーの影響と言われたケーテのシムボリズムがところどころに現れていることである。死の象徴として骸骨が「織匠」第二枚目にあらわれているばかりでなく、「死と女」その他後期の画面にも使われている。
ロシアでは有名な血の日曜日の行われた一九〇五年に、ケーテの描いた「鍬を牽く人」などの扱い方もシムボリックなところがあってどこかムンクを思わせる。そして、このケーテの内部に交流しているシムボリックな傾向が婦人画家としての彼女に、フライリヒラアツの詩やハウプトマンなどの文学作品から、モティーフを刺戟された題材の版画集を創造させた。しかも芸術作品として彼女のそれらの製作を傑出させているのは、ケーテの確かで深い現実観察からもたらされた写実的な手法である事実は、私たちに多く考えさせるものを持っている。ケーテが民衆の生活を描く画家として属していた歴史の世代が、ドイツにおける社会民主党の擡頭期とその急速な分裂の時代であったことはケーテの芸術のこの特徴と関係が深い。
ケーテが日常生活から題材をとって描き出しているスケッチには、感動させずにおかない真実がこもっている。ある場合にはむしろ連作版画よりも、もっとみなに愛され高く評価されている意味もわかる。
貧困、失業、働く妻、母子などの生活のさまざまな瞬間をとらえて描いているケーテの作品を一枚一枚と見てゆくと、この婦人画家がどんなに自分を偽ることができない心をもっていたかを痛感する。何か感動させる光景に出会った時、または心をとらえる人の表情に目がとまった時、ケーテはヨーロッパの婦人にありがちな仰々しい感歎の声ひとつ発せず、自分のすべての感覚を開放し、そこに在る人間の情緒の奔流と、その流れを物語
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