っている肉体の強い表情とを感じとり受け入れたにちがいない。さもなくて、どうして「音楽に聴き入る囚人たち」のこのような内心のむき出されている恍惚の顔つき肩つき、「歎願者」の老婆の、あの哀訴にみちた瞳の光りが描けたろう。
ケーテのスケッチに充ちている偽りなさと生活の香の色の濃厚さは、私たちにゴーリキイの「幼年時代」「私の大学」「どん底」などの作品にある光と陰との興味つきない錯綜を思いおこさせる。また魯迅が中国の民衆生活に対して抱いた深い愛と洞察と期待とに共通なもののあることをも感じさせる。そして、これらの誠実な芸術家たちが、ゴーリキイはケーテより一つ年下であり、魯迅は十四歳若く、ほぼ共通な文化の世代を経て生き、たたかい、世界芸術の宝となっていることも注目される。
魯迅は一九三五年ごろに、中国の新しい文化の発展のために多大の貢献をした一つの仕事として、ケーテ・コルヴィッツの作品集を刊行した。その中国版のケーテの作品集には、ケーテの国際的な女友達の一人であるアグネス・スメドレイの序文がつけられた。スメドレイは進みゆく中国の真の友である。そしてアグネス・スメドレイの自伝風な小説「女一人大地を行く」の中に描かれているアメリカの庶民階級の娘としての少女時代、若い女性として独立してゆく苦闘の過去こそ、それの背景となった社会がアメリカであるとドイツであるとの違いにかかわらず、ケーテの描く勤労する女性の生活のまともな道と一つのものであることも肯ける。私たちにとってさらに今日感銘深いのは日本において、スメドレイの「女一人大地を行く」を初めて日本語に翻訳して、日本の婦人に一つのゆたかな力をおくりものとしてくれた人が、ほかならぬ尾崎秀実氏であったことである。
一九一四年に第一次欧州大戦が始まった。ケーテはその秋、次男を戦線で失った。この大戦の期間から、それにひきつづくドイツの人々の極度に困窮した不幸になった時代、フローレンス旅行以来しばらく沈黙していたケーテの創作は再び開始された。もう六十歳に近づいて、妻として母として重ねたかずかずの悲喜の経験とますます暗い雲に光を遮られた時代に生きる人々への情熱とで、ケーテは「戦争」(一九二〇―二三)「勤労する人々」(一九二五)を創った。五十七歳の時のケーテの自画像には、しずかな老婦人の顔立のうちに、刻苦堅忍の表情と憐憫の表情と、何かを待ちかねているような思いが湛えられている。
晩年のケーテの作品のあるものには、シムボリックな手法がよみがえっている。が、そこには初期の作品に見られたようなややありふれた観念の象徴はなくて、同じ底深い画面の黒さにしろ、ケーテはその暗さの中に声なき声、目ざまされるべき明るさの大きさ、集団の質量の重さを感得している。
一九二七年にケーテ・コルヴィッツの六十歳の祝賀が盛大に行われた。彼女の版画はその材料として都会のどぶ板に使う石版を使うからといってウィルヘルム二世から「どぶ石芸術の画家」といわれたケーテは、今やドイツの誇りとして、あらゆる方面からのぎょうぎょうしい新たな称賛と敬意とを表された。
同時に、ケーテの芸術が真に勤労者生活を描いているからこそ生じている社会的な迫力を、ぼんやりとただ愛という宗教的なものとして解釈しようとする批評家も一部にあらわれた。穏かな言葉ではあるが、ケーテは自身でそういう評価を拒んでいる。
一九二九年の世界大恐慌から後一九三三年ナチス独裁が樹立するころ、ケーテの生活はどんなふうであったのだろう。シュペングラーが「婦人は同僚でもなければ愛人でもなく、ただ母たるのみ」という標語を示した時、母たるドイツの勤労女性の生活苦闘の衷心からの描き手であったケーテ・コルヴィッツは、どんな心持で、この侵略軍人生産者としてだけ母性を認めたシュペングラーの号令をきいただろうか。その頃から日本権力も侵略戦争を進行させていてナチス崇拝に陥った。ケーテの声は私たちに届かない。
ケーテには記念碑的な作品がないといわれている。ローザ・ボヌールにおける「馬市」のような作品がないという限りで、それは当っているのかもしれない。けれども、あらゆる世代が人間生活の進歩についてまじめに思いをめぐらしたとき、その一歩のために「才能は一つの義務である」ことをその画筆で示したケーテ・コルヴィッツを忘却することは不可能である。芸術家としてのそのような存在が記念碑的でなかったといい得る者はないはずである。[#地付き]〔一九四一年三月。一九四六年六月補〕
追記
一九五〇年二月、新海覚雄氏によって、「ケーテ・コルヴィッツ――その時代、人、芸術」という本があらわされた。
一九三三年、ナチスが政権をとってから第二次大戦を通じて、ケーテはどうしていただろうというわたしたちの知りたい点が、新海氏によって語ら
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