ればなりません。愛する娘たち、私はその希望を抱いてあなた方を固く抱きしめます。」
 刻々パリの危険が迫ってきた。キュリー夫人は貴重な一グラムを、安全なボルドー市へ移すことにきめた。一グラムのラジウムとは、鉛の被蓋の中で細い管が幾つもたえず光っている一つの大変に重い箱である。黒いアルパカの外套を着て、古びて形のくずれた丸い柔い旅行帽をかぶったマリアは、単身その重い箱を持って満員の列車に乗りこんだ。客車の中は敗戦の悲観論にみち溢れている。鉄道沿線の国道には、西へ西へと避難してゆく自動車の列がどこまでも続いている。しかしキュリー夫人はあたりの動乱に断乎として耳をかさず、憂いと堅忍との輝いている独特な灰色の眼で、日光をあびたフランス平野の景色を眺めていた。ボルドーには避難して来た人々があふれていて、キュリー夫人では重くて運びきれない百万フランの価格を持っている一グラムのラジウム入の箱を足許に置いたまま、危く駅前の広場で夜明しをしそうな有様であった。偶然、一人の官吏が彼女を助けた。やっと夜をしのぐ一部屋が見つかり、ラジウムは安全になった。翌朝キュリー夫人はその重い宝を銀行の金庫へ預けた。
 パリ
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