からボルドーへと向って来た旅行の間、彼女はまるで人目に立たずにすんだ。けれども今重い責任をはたしてパリに帰ろうとする時になると、彼女の廻りには人垣ができた。この婦人がパリへ帰ってゆく! 誰だろう? 何のために? パリが今にも包囲されるという噂が、人心を根からゆすっているのであった。マリアは固く口をつぐんで、自分の身を明さなかったが、それらの群衆に向って、パリは持ちこたえるだろうということ、市民は危険にさらされないだろうということを話して聞かせた。
 たった一人の非戦闘員である彼女を乗せた軍用列車は、信じられないほどののろさで平野を横切りながら、進んだり止ったりしてパリに近づいた。昨日研究所を出てから何一つ食べる暇のなかったマリアに、一人の兵士が雑嚢から大きなパンを出して彼女にくれた。それは愛するフランスの香り高いパンである。
 キュリー夫人が帰り着いたパリは、脅威を受けながらも物静かで、九月初めのうっとりするような光りをあびてきらめいている。そして喜ばしいニュースが巷に飛び交っていた。マルヌの戦闘が始まってドイツ軍の攻撃は阻止された。
 二人の娘たちはまだブルターニュにいた。マリアは彼
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