分裂をする。その心理的動機を個人的な恋愛問題嫉妬などで表現していることである。
 カターエフに云わせれば、富農の妻が集団農場組織のために派遣された指導者に共鳴し、好意を持ち夫と対立する現象も根柢は女の正しい階級意識から出ているものだと云うのだろうが、実際の効果においてはそうみとめられない。
 たださえ集団農場化に反対な富農が女房までソヴェト役員にとられたと勘違いした揚句、村の反革命的分子を煽動して指導者を石で打殺す結果になったとしか思われない。
 カターエフの誤謬は階級的闘争を大衆的に表現せず、個人の心理描写で説明しようとしたところにある。
 エム・オー・エス・ペー・エス劇場の「憤怒」はカターエフの誤謬を清算している。さすがは職業組合によって直接管理されている劇場だけある。
「憤怒」においては「前衛」に描写されているようないわゆる主人公はない。村の女教師がいる。貧しい女小作人がいる。その女の小さい息子がいる。党員の村ソヴェト役員がいる。これ等数人が各々ぬきさしならぬ同等の役割で村の反革命分子と闘い、集団化を完成に導いてゆく。
 カターエフの作品とくらべて特に面白いのは、一方がいかにもインテリゲンチアの作家によってかかれた戯曲らしく整っていて、同時に農民の描写が観念的なのに対して「憤怒」の女小作人、若い農夫、村の女教員さえ、いかにも生きいき現実的にとらえられているという点である。
 それを外国人である我々の観衆独特の批評でいえば、こうだ。
「前衛」のせりふで解らないところはごく少い。けれども「憤怒」で見物がドッと笑うソヴェト農村ユーモアは悲しや(!)いたって少からず解らない、と。
 実際の闘争において農村ピオニェールの任務は非常に大きい。
「憤怒」では、ソヴェト演劇においてこれまでほとんどつかわれなかった子役の形でピオニェールを出し、ごく自然な明るさで、農村と都会の集団農場中央との連絡として重大な役割を演じさせている。
 これなども劇の現実性を高めている。
 五月二日ソヴェトの勤労者達は全然無代でこれらの芝居を見るのである。(平常は大抵半額で職業組合を通じて切符を買う。)
 特別にこの夜のために脚本が選定されるということはない。平常から各劇場の上演目録は特別の統制機関によって選ばれている。
 いつもその時ソヴェトの全勤労者がおかれている社会的情勢、細かく云えば党と職業
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