描いて、中尉ルドヴィッチの人間的再出発の説明にあてようとしたのであったかも知れない。残念ながらこの意図は完全に失敗している。なるほど私たちは観ている中に思わず唸るほどたっぷり沙漠を見せられるが、その沙漠はただ風が吹き暴れたり、陽が沈んだり、夜が明けたりする変化に於てだけとらえられている。反復が芸術的に素朴な手法でされているものだから、希望される最も低い意味での風景的異国趣味さえ損われてしまっている。登場する人物は少数のイタリー指揮官と、銃を与えられて、整列すること、敬礼すること、同じ黒い皮膚を持った沙丘の彼方の土民を射撃することを正当化されているリビヤ土人の一隊である。人間再出発の重大なモメントである土民との接触の面は、この映画で軍事的なものの外は見落されている。土民兵士の日常生活、彼等の白い被衣をかぶった妻子たちとの暮しぶり等は一つも画面に取り入れられていない。ただそこには調練と沙漠の行軍と描き出されてはいない敵との交戦があるだけである。これらの描写を通して、ルドヴィッチが最後にクリスチアーナに向って深刻な顔つきで訣別をつげる気持の変化を理解しようとすれば、一つの単純な形で語られている軍人気質、愛国心めいたもの以上に深いものを見出し得ないのがむしろ自然であると思う。
「リビヤ白騎隊」の芸術的限度がそこに止っているのである。
「脱出の映画」の第一の作品としてこの映画を紹介されて見ると、私たちには「脱出」の本質的な内容に対する疑問が益々深まって来る。この映画の語る範囲では現在ファシストの国で云われている「脱出」が本質に於ては新しいものではなく、旧い植民地政策のより一般化されたアジテーションであるとしか見えない。世界の文化の問題から見れば、イタリーの一般知識人の中にあるハケ口のない脱出の欲求が、外から却って彼等を脱出せしめざる方向へ振り替えられていることが、関心事であろうと思う。
「リビヤ白騎隊」が芸術的に弱いロマンティシズムに捕われながら、手法の上で一種独特の単調な反復を敢てしている点が、私に数ヵ月以前観たドイツのヒマラヤ登攀実写映画を思い出させた。その映画でもやはり人間の努力の姿を語ろうとして同じような山道を攀《よ》じ登る姿を繰り返し繰り返し見せた。山の岩石の構造の相違やそこを登攀する技術の相違や雪の質、氷河の性質等に就いてカメラがもっと科学的に活用されていたらばあ
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