を伴って組織し直さるべきもの、再出発をするべきものというのが「脱出の文学」の主張するところであるらしい。そして「灰色の道」という小説をフィリッポ・サツキという作家が書いており、その作品もイタリー文壇の今日の「脱出」の要求に応えたものであるという紹介がされている。
「リビヤ白騎隊」は映画に於ける最初の「脱出」の映画として登場したものであるそうである。ムッソリーニ賞が与えられたということの社会的背景がこれらの事情によってやや理解されるのである。
イタリーの作家達がこの数年来置かれていた社会的事情を考えると、今日「脱出」の欲求が広汎に生じていることもうなずける。だがこの「脱出」への要求の一番の根源には何から脱出したいという感情が横たわっているのであろうか。そして、果して現在方向づけられているようにアフリカへ向って、リビヤへ向って、エチオピヤへ向って土着種族から生活権を奪うことが、イタリーの文化人にとって最も望ましい唯一の脱出の道と考えられているのであろうか。私どもに考えさせる少からぬものがここに含まれている。
フランス人にとってアフリカは貴重な天然資源の植民地であると同時に、十九世紀の初頭からロマンティックな脱出地であった。そのことはアナトール・フランスやジイドの文学を見ただけでも明かである。デイトリッヒとボアイエとが演じた「沙漠の花園」はフランスのカソリック精神と人間の情熱とアフリカの沙漠とを結びつけた平凡な一つの作品であった。ラテン文化はアフリカを植民地化そうとした時から文化芸術の面でのアフリカのロマンティック化に従事して来ているのである。
今日イタリーで云われている「脱出」の新しい意味は、以上のような従来の脱出に加えて、アフリカで、沙漠で、世界観までを新にしようというところであろうが、「リビヤ白騎隊」を観て、この映画の芸術的現実の中から人間再出発の新しい典型を見ることは困難であった。監督アウグスト・ジェニーナは人間再出発の自然的条件として沙漠というものを実に根気よく繰り返し繰り返し見せている。映画の手法、映画の持っている便利なテンポを全く無視する程腰を据えて沙漠とその沙漠をラクダに乗って横切って行く土民とイタリー人の指揮官の一隊を写している。監督の意図では沙漠というものの持つ広大な自然力と小さい人間との対照、並に小さい躯に盛られている人間の自然に対する闘争力を
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