アンネット
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)女主人公《ヒロイン》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九二七年十月〕
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 好きな物語の好きな女主人公《ヒロイン》は一人ならずあるが、今興味をもっているのは、ロマン・ローランの長篇小説 The Soul Enchanted(魅せられた魂)の女主人公《ヒロイン》アンネットです。この小説はジャン・クリストフのように、アンネットという女性の一生を取扱ったもので、まだ第三巻目が発行されたばかりで、而もその「母と子」という題の三冊目はまだ読んでいないから、私の内でアンネットの人格は全く発展の中途にあるのです。
 大体、外国の本当に偉い作家たちはよく女性を描いているので感心します。トルストイも実に生きた女を描いたし、このロマン・ローランもジャン・クリストフの中に面白い沢山の活々した女性を描写している。ロマン・ローランは本当に女性を細かく理解している。例えば、生れつき流眄《ながしめ》を使う浮薄な、美しい上流の令嬢であるミンナ。無精で呑気《のんき》で仇気《あどけ》ない愛嬌があって、嫋《たお》やかな背中つきで、恋心に恍惚しながら、クリストフと自分との部屋の境の扉を一旦締めたらもう再び開ける勇気のなかったザビーネ。白く美しい強壮な獣のようなアダ。フランスの堅気な旧教的な美を代表するアントワネット。強烈な火の急流のようなアンナ、または男がいつも我流に女を愛して平然としていることその他、女性の家庭生活の不満に充分苦しみながら「でも、大半は婦人に敵対している社会で、一人で生活しなければならない女性の生活の恐ろしさ」の前にちぢんで、諦めの力でよき妻となっているアルノー夫人。
 どれも興味ある女性たちですが、アンネットの面白さは、彼女が現代の知識階級の女性の代表である点です。クリストフの中に現れる女性は、各々豊富な感情や性格をもっていたが、現代女性の理智に欠けていた。彼女達は我知らず性格のままに生き、境遇につまりは順応した。
 アンネットは、自分の心がどのような生活を欲しているかをはっきり自覚し、その為に境遇の膳立てに逆ってでも、自己の生活方向、方法、内容を自力で決定しようとする女性なのです。時代的にいえば、アルノー夫人の後進者です。そして彼女の腹違いの妹のシルヴィが、生粋のパリの市民で――プロレタリアートで、イリュージョンを持たず、機智的で実務家で、恋愛と結婚とをはっきり区別し、「そりゃ恋人には危っかしくたって面白い人がいいけど、良人には、一寸退屈だって永持ちのする確《しっか》りした人でなくっちゃ」と云う女なのに反し、アンネットは理想家です。アンネットは、将来政治界に活動しようとする或る青年を愛した。が、いざ結婚というところまで進んで、腐敗した政治界、善良ではあるがごく世間並なその青年の結婚観に一致出来ないことを感じ、苦しむ。アンネットの裡には、不羈《ふき》な自由精神があって、彼女の心臓《ハート》の力で殺すことが出来ない。然し彼女の成熟した女性は愛を欲し、大きな情熱によってその婚約した青年とは永劫に別れつつ、彼の児の母となった。社会の常識と闘い、アンネットはそれを機会に新たな生涯に入った。彼女は、彼女の父親の代から属していた有産階級と絶縁し、家庭教師その他知的職業によって生活する一人の無産者となった。
 アンネットは美しい。若い。然し恋愛を或る点恐怖している。アンネットは一旦自分を譲ったら徹底的に譲歩する自分の性質、並に必ず反抗するに違いない自分の自由を欲する魂をよく知っている。
 中年に成って、アンネットはその恋愛に征服された。彼女は精力的な、社会の下層から身をのし上げた、有名な、派手な、素晴らしく天才的な外科医を愛するようになった。アンネットは、その男が征服的な、革命的な、精力に満ちた社会的闘士でなかったら愛するようにはならなかったろう。その男も、アンネットがアンネットでなかったら愛しはしなかったであろう。彼は自分の美しい若い妻を、女に知識は必要ないという主義で馴らしていたから、アンネットの裡に全然別種な、自分と共鳴することによって異常な興味を呼び醒された一箇の女性を発見したのであった。
 この恋愛も破滅した。原因は、男の強大な主我主義と肉情によって、アンネットは自分が彼の愛人として人格的に陥りかかっている屈辱の深淵を見透し、自分の健康な自尊心をとりかえさずにいられなくなったのであった。――アンネットが確実に彼のものとなった後、彼は、アンネットの誠実な、熱烈な純一を愛する心を無視した一つずつの肉的な抱擁が、どんなにアンネットの霊魂を傷つけるかまるで考え得なかったのであった。アンネットは、大きな、死ぬばかりの苦痛を味
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