低いどす声で云って顔を動かさず靴下を引っぱり上げている。
 木の箱へ何かの鉄たがで工面したような輪が四つくっついている。繩一本地面にのたくっている。それで引っ張るように、木の箱の中へ赤坊が入っていた。額に横皺の出たしなびた赤坊が入れてあった。赤坊もそれより大きい子供たちもここではロシアのバラライカを逆に立てたような顔付をしていた。逆三角は人間の顔ではない。だから見る者の心臓にその形が刺さった。耳の横や食い足りない思いをして居る大きな口のまわりに特に濃く、そして体全体に異様にねっとり粘りついている蒼黒さは東端《イーストエンド》の貧の厚みからにじみ出すものだ。子供等自身はそれについて知らぬ。富裕なるロンドン市が世界に誇る、英国の暮し向よき中流層を拡大させつつ東端《イーストエンド》には一時的ならぬ貧を二代三代とかさねさせているうちに、この逆三角の顔を持ち七歳ですでに早老的声変りをした異様な小人間がおし出されて来たのである。
 並木路のまんなかを一人の男の子が小便しながら歩いて来る。
 子供の生活に興味を示しているような大人はこの辺に一人もいなかった。小さい稼がぬ人間と稼いでも稼いでも碌な飯の食えない人間と稼ぎたくても稼ぐに道のない人間とがあるだけだ。
 ヴィクトリア公園を二分する道路のあちら側に鉄門があって、そっちに草原がひろがっていた。おふくろ[#「おふくろ」に傍点]のを仕立直したスカートをつけたお下髪の女の子そのほかが草原で遊んでいる。草原は禿げちょろけだ。短い草が生え、ところどころ地面が出ている。賃貸し椅子はない。人間につれられて駈けつつ首輪を鳴らす犬はいない。
 公園の外を一条の掘割が流れている。橋の欄干にひじをかけて男が二人どこかでテームズ河に流れ入るその水の上を眺めている。鉄屑をのせた荷舟が一艘引船で掘割をさかのぼって行くところである。舟をひいているのは馬だ。一人の男がよごれた背広で馬の横、コンクリートの上を歩いて行った。

 再び二階建の家。家の裂目から気違いのようにでこぼこした小屋が飛び出て居た。家。家。赤煉瓦の家。東端《イーストエンド》もここいらは上の部だ。駄菓子屋がペニー菓子を売っている。極く安物の雑貨屋が木綿靴下やピンやセルフリッジの絵葉書部にあるのとは種属の違う二ペンスエハガキを並べた。たとえばこんなエハガキだ。
 街角。赤襟巻の夕刊売子がカラーなしの鳥打帽をつかまえて云っている。
 ――ペニー足りねえよ!
 ――うむ……ねえんだ。
 ――持ってるって云ってやしねえ。だが、俺にゃペニー不足におっつけて手前あくるみ食ってやがる。ペッ!
 白手袋の巡査がびっくりして振向く夕刊売子の腹にビラが下ってる。「又々大胆不敵なる強盗現る※[#感嘆符二つ、1−8−75]」こんなのもある。列になって失業者が立っている。「失業者相談掛」札の下った机の前だ。ひしゃげた山高帽の失業者がだぶだぶズボンに片手を突込んだなりその机に肱をついて
 ――ねえ、旦那。あっしゃもうこれで一年以上お情金で食って来たんだがその方の昇給って奴はねえもんかね?
 こういうエハガキを売るビショップ町ではキャベジ一つ一ペンスである。二三ペンスで茶色に乾いた燻製魚が一匹食える。調子っぱずれなラッパの音がした。よごれくさった白黒縞ののれんの奥だ。看板に「火酒《スピリット》」。臓物屋の店先で女子供が押し合った。
 ピカデリー広場行の乗合自動車《オムニバス》はかなくそでつまったような黒いロンドンを一方から走って来てビショップ町の出入口から心配げな顔つきをした僅の男女をしゃくい上げた。そして再び場末のごたごた中に驀進した。

 デパアトメント・ストアだ。家具大売出し! 十八ヵ月月賦!
「キリストは生きている!」教会だ。
「質」
「古着」

 高い建物と建物との隙間に引込んで煤けきった大鉄骨が見えた。黒い、日のささぬ鉄骨の間に白いものを着た子供が動いていた。工場裏に似たそれは皇后児童病院《クイーン・ホスピタル・フォア・チルドレン》だった。

 チラリと水がはがね色に光った。掘割だ。高架鉄道|陸橋《ブリッジ》は四階の窓と窓とを貫通した。

 タクシーがちらほら走った。

 おや、しゃれた警笛《クラクソン》が鳴るじゃないか。なるほど乗合自動車《オムニバス》はやっとロンドン市自用車疾走区域に入った。

 汽船会社が始まった。また汽船会社がある。何とかドック会社がある。船舶保険株式会社がある。再び汽船会社だ。
 その建物全体がそのまま金庫みたいな外観をもっていた。窓に金色の楯に王冠をかぶった獅子と馬とが前脚をかけた例の皇帝紋章が打ってある「大英宝石商会」である。
 続いて堅牢な石の外壁に沿って走り乗合自動車《オムニバス》は非常な雑踏のまっ只中に止る。そこは都会の三角州である。ここでは妙に身丈の縮小したように見えるロンドン人が山高帽の波を打たせて右往左往やっている。一つの騎馬像が人間波浪から突立って見えた。英蘭銀行《バンク・オヴ・イングランド》の八本の大円柱がこの三角州の上で堂々と塵をかぶりつつ、翼を拡げている。
 貧乏人町|東端《イーストエンド》の方からやって来るところには一本の円柱もない。見上げる石壁が平ったく横に続いてるだけだ。が、|山の手《ウエスト》から来ると人はあらゆる地上地下の交通機関とともに必ずこの英蘭銀行《バンク・オヴ・イングランド》三角州につき当った。八本の大円柱の上の破風にはANNO―ELIZABETHAE―R―※[#ローマ数字「VIII」、1−13−28]―CONDITUM―ANNO―VICTORIAE―R―※[#ローマ数字「VII」、1−13−27]―RESTAURATU。即ち英国の旺盛な植民地拡張時代をしめす符牒のようなラテン語がきざんである。広い石段を上下する人間は気ぜわしい往復の爪先で広場の鳩を追い散した。広場はガラス張だ。――下が地下電車の停車場なのだ。一九一四―一九一九年大戦に於て彼らの皇帝並|帝国《エムパイヤ》に奉仕せる将校、下士およびロンドン市民の不朽なる名誉の為に、記念碑が立てられている。今日は休戦記念日《アーミスティスデー》じゃない。事務的なロンドン人は邪魔っけそうにその銀行前に突立つ記念碑をよけて急ぎ歩いた。枯れた花輪が根のところにあった。いくつもの空の花立はひっくり返って、白い鳩の糞だらけだ。そして三角州の突端、騎馬のウェリントン公爵像は背後に英蘭銀行《バンク・オヴ・イングランド》を、右手に株式取引所の厖大な建物を護り、巡査部長のように雑踏を上から睥睨《へいげい》している。
 |山の手《ウエスト》のここは終点である。英国のあらゆる国家的、個人的美徳、老獪、権謀がこの煤けた八本の大柱列内部で週給六十四シリング以下三四十シリングの男女行員達のペンにより簡単明瞭なる「借」「貸」に帰納されつつある。背後に「東端《イーストエンド》」がひろがり始めていようとも英蘭銀行《バンク・オヴ・イングランド》の正面《ファサード》は広大だ。両手を拡げるように都会植民地の前に大柱列を並べ、人はそこまで出てしまうと西《ウエスト》から来て再び西《ウエスト》へ寄せ返す人波と、二つの巨大な磁石巖――株式取引所と銀行とのまわりで揉み合い塵を捲き上げつつ流れる人渦とを見るだけである。

 ヨーロッパの買占人、紐育ウォール・ストリートでは、アスファルトとギャソリンくさい空気の中で著名なる経済学者ベブソン氏を不安ならしめつつ、未曾有の貸出と買占が行われている。
 ベルファストでは英国|労働組合《トレード・ユニオン》が大会開催中だ。議長ベン・ティレットがした演説にはこういう一節があった。
「国際経済統制の権衡の大部分はアメリカ合衆国に移動した。戦時中アメリカが集積した債務はこの移動の一原因にすぎぬ。アメリカの莫大なる天然資源、素晴らしい国内消費、不断に展開しつつある繁栄。これらもまた考慮に入れなければならない。西欧の資本家は利潤と返還資金を待望している。英国がこれらを供給しなければならぬ。
 それ故労働組合運動は経済単位としての英国国家組織のなされる提案に密接な関係をもって従わなければならぬ。」

[#ここから2字下げ]
ソラ、巡査が手をあげたぞ!
今のうちだ。つっきれ!
[#ここで字下げ終わり]
 が、日本の新聞までその写真をのせるパレスタインの「欺きの壁」とは一体何だろう? 何故英国は、大英博物館わきに本部をもつジオニストのために軍隊を動かし、ジオニストに武器を与え、何故アラビア人は殺されたのか?

[#ここから4字下げ]
ANNO――ELIZABETHAE――
ANNO――VICTORIAE――
[#ここで字下げ終わり]

 ロスチャイルドを親方にして民族国家をパレスタインに建設しようとする猶太《ユダヤ》「ジオニスト運動と英国の根本政策とは一致した」。パレスタインに英国軍用機駐屯所を持つことは近東及印度に対していい押えだ。ルッテンベルグ協約で英国はヨルダン水力電気利権を得た。死海協約でおよそ八十億ポンドの塩を英国は死海から儲けるであろう。パレスタインで農業をしていた先住アラビア人は多く土地を奪われた。ジオニスト政策は猶太《ユダヤ》人労働者を労働貴族にした。「パレスタイン労働組合《トレード・ユニオン》は資本家と争うためではない。」アラビア人労働者の組合加入、組合組織は禁止され、鉄道従業員組合だけが開放されている。そしてパレスタイン労働賃金は、
[#ここから5字下げ]
      不熱練       熱練
      志.片.      志.片.
猶太人 ……4/2―5/2   6/3―8/4
アラブ人……1/3―2/1   3/1
[#ここで字下げ終わり]
 交通機関の血圧上昇がやや緩和された。フリート町だ。新聞社町である。ジョソン博士が麦酒《ビール》を飲みながら片手に長煙筒を持ってビール盃を出す料理屋がフリート町にある。その半木造《ハーフティムバア》の家で昔ジョンソン自身が現代の新聞社街を支配する資本家を知らずに酔っぱらった。そして気焔を吐いた。
 ハイド公園《パアク》に近いピカデリー通りで貴族の邸宅は年々クラブや自動車陳列店と変形しつつあった。そして、バッキンガム宮殿の鉄柵に沿って今もカーキ色服に白ベルトの衛兵が靴の底をコンクリートに叩きつけつつ自働人形的巡邏を続けているであろう。になった銃の筒口が聖《セント》ジェームス公園の緑を青く照りかえして右! 左! 右! 左!

 オックスフォード広場で、勤帰りを待伏せる春婦が、ショー・ウィンドウのガラス面に自分の顔を、内部にこの商品を眺めつつぶらつき、やがて三十分もするとロンドン市中、あらゆる地下電車ステーションの昇降機《リフト》とエスカレータアは黒い人間の粒々を密集させて廻転する巨大な産卵紙となる。乗合自動車、郊外列車。夕刊。パイプ。あいびき。それから家庭へ! 家庭へ! 下宿へ。下宿へ! 英蘭銀行《バンク・オヴ・イングランド》を中軸とする商業地帯は午後五時以後一時に暗く貧血して夜毎の仮死状態に入る。
 が、諸君!
 ロンドンの勤労者諸君! 諸君はロンドン地下電車に積み込まれて疾走しつつ、頭の上にどんなロンドン市地図が展開しているか果して知っているか? 大都会の植民地|東端《イーストエンド》から英蘭銀行《バンク・オヴ・イングランド》にいたる黒い長い路。それから、新聞街、問屋町、西《ウエスト》バッキンガムに至るまでの活溌な、広い路。そのどこに諸君の町があるか。知っているか? 地表のロンドン市がいるのは労力だけだ。だから地下電車は君らを真空管のように吸い込んでは市の中へ、真空管のように吸い込んでは、滓として市の外へ捨てつつある。ただ手に持つパイプをたたき落されないだけの平安だのに、諸君はさながらロンドンを所有しているかの如く平安なのだ。
 或る日、東端《イーストエンド》から逆三角の顔を持つ老いたる若い時代が隊伍をなしてくり出して来なければならない。そしてロンドン市はいかに彼らの上に組み立てられているか、知らなければ
前へ 次へ
全7ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング