合い塵を捲き上げつつ流れる人渦とを見るだけである。

 ヨーロッパの買占人、紐育ウォール・ストリートでは、アスファルトとギャソリンくさい空気の中で著名なる経済学者ベブソン氏を不安ならしめつつ、未曾有の貸出と買占が行われている。
 ベルファストでは英国|労働組合《トレード・ユニオン》が大会開催中だ。議長ベン・ティレットがした演説にはこういう一節があった。
「国際経済統制の権衡の大部分はアメリカ合衆国に移動した。戦時中アメリカが集積した債務はこの移動の一原因にすぎぬ。アメリカの莫大なる天然資源、素晴らしい国内消費、不断に展開しつつある繁栄。これらもまた考慮に入れなければならない。西欧の資本家は利潤と返還資金を待望している。英国がこれらを供給しなければならぬ。
 それ故労働組合運動は経済単位としての英国国家組織のなされる提案に密接な関係をもって従わなければならぬ。」

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ソラ、巡査が手をあげたぞ!
今のうちだ。つっきれ!
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 が、日本の新聞までその写真をのせるパレスタインの「欺きの壁」とは一体何だろう? 何故英国は、大英博物館わきに本部をもつジオニストのために軍隊を動かし、ジオニストに武器を与え、何故アラビア人は殺されたのか?

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ANNO――ELIZABETHAE――
ANNO――VICTORIAE――
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 ロスチャイルドを親方にして民族国家をパレスタインに建設しようとする猶太《ユダヤ》「ジオニスト運動と英国の根本政策とは一致した」。パレスタインに英国軍用機駐屯所を持つことは近東及印度に対していい押えだ。ルッテンベルグ協約で英国はヨルダン水力電気利権を得た。死海協約でおよそ八十億ポンドの塩を英国は死海から儲けるであろう。パレスタインで農業をしていた先住アラビア人は多く土地を奪われた。ジオニスト政策は猶太《ユダヤ》人労働者を労働貴族にした。「パレスタイン労働組合《トレード・ユニオン》は資本家と争うためではない。」アラビア人労働者の組合加入、組合組織は禁止され、鉄道従業員組合だけが開放されている。そしてパレスタイン労働賃金は、
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      不熱練       熱練
      志.片.      志.片.
猶太人 ……4/2―5/2   6/3―8/4
アラブ人……1/3―2/1   3/1
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 交通機関の血圧上昇がやや緩和された。フリート町だ。新聞社町である。ジョソン博士が麦酒《ビール》を飲みながら片手に長煙筒を持ってビール盃を出す料理屋がフリート町にある。その半木造《ハーフティムバア》の家で昔ジョンソン自身が現代の新聞社街を支配する資本家を知らずに酔っぱらった。そして気焔を吐いた。
 ハイド公園《パアク》に近いピカデリー通りで貴族の邸宅は年々クラブや自動車陳列店と変形しつつあった。そして、バッキンガム宮殿の鉄柵に沿って今もカーキ色服に白ベルトの衛兵が靴の底をコンクリートに叩きつけつつ自働人形的巡邏を続けているであろう。になった銃の筒口が聖《セント》ジェームス公園の緑を青く照りかえして右! 左! 右! 左!

 オックスフォード広場で、勤帰りを待伏せる春婦が、ショー・ウィンドウのガラス面に自分の顔を、内部にこの商品を眺めつつぶらつき、やがて三十分もするとロンドン市中、あらゆる地下電車ステーションの昇降機《リフト》とエスカレータアは黒い人間の粒々を密集させて廻転する巨大な産卵紙となる。乗合自動車、郊外列車。夕刊。パイプ。あいびき。それから家庭へ! 家庭へ! 下宿へ。下宿へ! 英蘭銀行《バンク・オヴ・イングランド》を中軸とする商業地帯は午後五時以後一時に暗く貧血して夜毎の仮死状態に入る。
 が、諸君!
 ロンドンの勤労者諸君! 諸君はロンドン地下電車に積み込まれて疾走しつつ、頭の上にどんなロンドン市地図が展開しているか果して知っているか? 大都会の植民地|東端《イーストエンド》から英蘭銀行《バンク・オヴ・イングランド》にいたる黒い長い路。それから、新聞街、問屋町、西《ウエスト》バッキンガムに至るまでの活溌な、広い路。そのどこに諸君の町があるか。知っているか? 地表のロンドン市がいるのは労力だけだ。だから地下電車は君らを真空管のように吸い込んでは市の中へ、真空管のように吸い込んでは、滓として市の外へ捨てつつある。ただ手に持つパイプをたたき落されないだけの平安だのに、諸君はさながらロンドンを所有しているかの如く平安なのだ。
 或る日、東端《イーストエンド》から逆三角の顔を持つ老いたる若い時代が隊伍をなしてくり出して来なければならない。そしてロンドン市はいかに彼らの上に組み立てられているか、知らなければ
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