ならない。
 或る日、東端《イーストエンド》から逆三角の顔を持つ老いたる若き時代が隊伍をなしてくり出して来なければならぬ。そして、|山の手《ウエスト》人は食慾を失い、ロンドンが踏んまえている者の鼻面へオーデコロンをぬった鼻面を擦りつけさせられなければならぬ。

 幅ひろい雨がロンドンに降った。夏の終りだ。ペーヴメントを濡し薄い女靴下をびっしょりにして降る雨は、自動車がほろの上にしぶきを立てつつ孤独に走る両側で夏の緑をずっぷり溶かした。
 驟雨が上る。翌日は蒸し暑い残暑《セプテンバア・ヒート》だ。樹がロンドンじゅうで黄葉した。
 空は灰色である。雨上りのテームズ河に潮がさし、汽船が黒、赤、白。低い黒煙とともに流れる。架橋工事の板囲から空へ突出た起重機の鉄の腕が遠く聳えるウェストミンスタア寺院の塔の前で曲っている。河岸でも葉は黄色かった。トラックのタイアに黄葉が散ってくっついて走った。

 PELL《ペル》――MELL《メル》は古風な英国の球ころがし遊びの名である。
 古来英国人は実によく球で遊んで来た民族だ。潮流の加減で冬でも霜ぶくれにならぬ草原と地震なきゆるやかな丘の斜面が彼らのところにある。遊牧時代のある日、そういう丘の斜面を一つ円っこい石が転り落ちたのだろう。羊の皮を下腹に巻きつけたMR《ミスター》・ジョンブルの祖先が野蛮なる青春の歓喜に満ちてそれを追っかけ、拾い、また丘のかなたへ叫びながら投げかえした。木の枝で打ち飛ばした。木の枝の切端は専門家がそれについて数頁の説明を費すであろう現在のゴルフの打杖に迄進化した。球を小さくして青羅紗の上へ転して見る。大きい円い奴をふっ飛ばして一つの跳躍する球が人体集団をいかに制約するか、金を儲けて見物する。しゃれたチョッキで見事な馬にのって球のかっ飛しっこをする。――いろんな道具でいろんな工合に球をころがして遊んでるうちに英国人に地球までがあしらい切れる、つまりは一つの大きな球ではないかと云う風に感じられた時代もあったのではなかろうか。
 ロンドンのPELL《ペル》・MELL《メル》は有名なクラブ通りである。各々のクラブは会員共通の利害を意味する有形無形の現代的球を中心に、外国人がその会員として推挙されるとそれを一種の名誉に感じる程度の結晶をなしている。王室自動車倶楽部《ローヤル・オートモビール・クラブ》というものがペル・メル通にあった。自動車に関係ある人なら誰でも会員になれるのだそうだ。じゃあビーン製作工場の労働者や、オーステン製作場に働いてるものはてのひらの皮まで自動車油にしみついてずいぶん直接関係の者なんだが――どうだろう? 一つ会員にしちゃ貰えまいか。夜会服で英国のプディングを食っている王室自動車クラブの連中はびっくりして、その仲間をそっと喫煙室の隅へ引っぱって行き、舌を出させて覗き込むだろう。それから医学的忠告を与えるに違いない。――君、気をしずめ給え。冷えないように今のうち家へ帰ってヒマシ油飲んで床へ入るこったね。……

 ロンドンの全人口が毎土曜ゴルフをやりに出かけるのではない。証拠に、こう云う文句がある。「おい、あの紳士は、フランス語、イタリー語にゴルフ語しゃべくるぜ」

 ジュネ※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]に於ける国際連盟の都市衛生顧問は、世界に於て最も衛生施設の行届いた都会としてロンドンをあげるだろう。巡回看護の制度はロンドンで最初に制定されたと。ロンドンで病院《ホスピタル》と云えばほとんど無料病院の同義語ではないか、と。たしかにイギリス人は公共慈善事業への応分の寄附は、犬一匹飼えば七シリング六ペンスの税を払わなければならないと同様定期支出の一部と認める伝統をもって来た。しかし本来の性質上その英国に於てさえ慈善心の発動にはいかに技巧的な絶間ない刺戟が必要かと云う例をレッツ出版の事務用出納簿が明かに示した。そこで彼らは五十余頁にわたる類別商店会案内の後でいきなり痛切な活字の叫びに捉えられるだろう。
 ――|助けよ《ヘルプ》※[#感嘆符二つ、1−8−75]
 ――一杯やる前に遺言に署名せよ。(サミュエル・ジョンソン)貴君の遺言中に当院への遺贈を記入されんことを。
 ――何処にあるか。
   何をしているか。
   何を必要としているか。
 助《ヘルプ》を求めて!※[#感嘆符二つ、1−8−75]! 火花を飛ばしているのは病院孤児院ばかりではない。宗教団体、養老院、盲唖院、皇后が保護者となっている馬の休養所まで等しく「熱心に」「火急に」寄附を求めている。
 ミス・エラリン・メイシーは社会組織のひびから発するこの!《エクスクラメーション》を事務家的才能で把握し婦人雑誌に写真ののる成功者となった。慈善的催しを組織する専門職業婦人がロンドンに数人ある。彼女もその一人で
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