しの鳥打帽をつかまえて云っている。
 ――ペニー足りねえよ!
 ――うむ……ねえんだ。
 ――持ってるって云ってやしねえ。だが、俺にゃペニー不足におっつけて手前あくるみ食ってやがる。ペッ!
 白手袋の巡査がびっくりして振向く夕刊売子の腹にビラが下ってる。「又々大胆不敵なる強盗現る※[#感嘆符二つ、1−8−75]」こんなのもある。列になって失業者が立っている。「失業者相談掛」札の下った机の前だ。ひしゃげた山高帽の失業者がだぶだぶズボンに片手を突込んだなりその机に肱をついて
 ――ねえ、旦那。あっしゃもうこれで一年以上お情金で食って来たんだがその方の昇給って奴はねえもんかね?
 こういうエハガキを売るビショップ町ではキャベジ一つ一ペンスである。二三ペンスで茶色に乾いた燻製魚が一匹食える。調子っぱずれなラッパの音がした。よごれくさった白黒縞ののれんの奥だ。看板に「火酒《スピリット》」。臓物屋の店先で女子供が押し合った。
 ピカデリー広場行の乗合自動車《オムニバス》はかなくそでつまったような黒いロンドンを一方から走って来てビショップ町の出入口から心配げな顔つきをした僅の男女をしゃくい上げた。そして再び場末のごたごた中に驀進した。

 デパアトメント・ストアだ。家具大売出し! 十八ヵ月月賦!
「キリストは生きている!」教会だ。
「質」
「古着」

 高い建物と建物との隙間に引込んで煤けきった大鉄骨が見えた。黒い、日のささぬ鉄骨の間に白いものを着た子供が動いていた。工場裏に似たそれは皇后児童病院《クイーン・ホスピタル・フォア・チルドレン》だった。

 チラリと水がはがね色に光った。掘割だ。高架鉄道|陸橋《ブリッジ》は四階の窓と窓とを貫通した。

 タクシーがちらほら走った。

 おや、しゃれた警笛《クラクソン》が鳴るじゃないか。なるほど乗合自動車《オムニバス》はやっとロンドン市自用車疾走区域に入った。

 汽船会社が始まった。また汽船会社がある。何とかドック会社がある。船舶保険株式会社がある。再び汽船会社だ。
 その建物全体がそのまま金庫みたいな外観をもっていた。窓に金色の楯に王冠をかぶった獅子と馬とが前脚をかけた例の皇帝紋章が打ってある「大英宝石商会」である。
 続いて堅牢な石の外壁に沿って走り乗合自動車《オムニバス》は非常な雑踏のまっ只中に止る。そこは都会の三角州である。ここでは妙に身丈の縮小したように見えるロンドン人が山高帽の波を打たせて右往左往やっている。一つの騎馬像が人間波浪から突立って見えた。英蘭銀行《バンク・オヴ・イングランド》の八本の大円柱がこの三角州の上で堂々と塵をかぶりつつ、翼を拡げている。
 貧乏人町|東端《イーストエンド》の方からやって来るところには一本の円柱もない。見上げる石壁が平ったく横に続いてるだけだ。が、|山の手《ウエスト》から来ると人はあらゆる地上地下の交通機関とともに必ずこの英蘭銀行《バンク・オヴ・イングランド》三角州につき当った。八本の大円柱の上の破風にはANNO―ELIZABETHAE―R―※[#ローマ数字「VIII」、1−13−28]―CONDITUM―ANNO―VICTORIAE―R―※[#ローマ数字「VII」、1−13−27]―RESTAURATU。即ち英国の旺盛な植民地拡張時代をしめす符牒のようなラテン語がきざんである。広い石段を上下する人間は気ぜわしい往復の爪先で広場の鳩を追い散した。広場はガラス張だ。――下が地下電車の停車場なのだ。一九一四―一九一九年大戦に於て彼らの皇帝並|帝国《エムパイヤ》に奉仕せる将校、下士およびロンドン市民の不朽なる名誉の為に、記念碑が立てられている。今日は休戦記念日《アーミスティスデー》じゃない。事務的なロンドン人は邪魔っけそうにその銀行前に突立つ記念碑をよけて急ぎ歩いた。枯れた花輪が根のところにあった。いくつもの空の花立はひっくり返って、白い鳩の糞だらけだ。そして三角州の突端、騎馬のウェリントン公爵像は背後に英蘭銀行《バンク・オヴ・イングランド》を、右手に株式取引所の厖大な建物を護り、巡査部長のように雑踏を上から睥睨《へいげい》している。
 |山の手《ウエスト》のここは終点である。英国のあらゆる国家的、個人的美徳、老獪、権謀がこの煤けた八本の大柱列内部で週給六十四シリング以下三四十シリングの男女行員達のペンにより簡単明瞭なる「借」「貸」に帰納されつつある。背後に「東端《イーストエンド》」がひろがり始めていようとも英蘭銀行《バンク・オヴ・イングランド》の正面《ファサード》は広大だ。両手を拡げるように都会植民地の前に大柱列を並べ、人はそこまで出てしまうと西《ウエスト》から来て再び西《ウエスト》へ寄せ返す人波と、二つの巨大な磁石巖――株式取引所と銀行とのまわりで揉み
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