いる。種々なサンドウィッチ、菓子、果物サラドの全行程をリプトン紅茶とともに流し込んで、丈夫な群集にピエロが描いた細い眉をあげながら顫音《トレモロ》でロマンスを唄っている。

 だが、彼女の皮膚はきっと冷っこいのだ。それは若々しい彼女自身がしなやかな一つの楽器ででもあるようにああやって立ってヴァイオリンを顎の下へ当てがってる工合でわかる。弓《きゅう》を運ぶむき出しの右腕の表情でわかる。彼女は近代女性の感覚で、ロンドン有数な喫茶室の第一ヴァイオリンひきという自分の職業を理解しているのだ。

 この時百貨店スワンの五階で、マニキン学校卒業の一人の美しいマニキンが着換のため急いで昇降機《リフト》へ入ろうとした。拍手に彼女はあたりまえの女になり、我知らず気を急ぎながら足許には注意する、大して若くもない、大して楽な暮しもしてない女のうしろつきを人生の真実な一瞬に向って落して行った。

 これ等はどれもチャーリング・クロスから遠くないところにある情景だった。チャーリング・クロスは古本屋通である。交通機関が立てるちりは古本屋の店頭で大英百科字典《エンサイクロペディア・ブリタニカ》の堆積の上へ落ちた。よりどり一冊六ペンスの古本の切れた綴目の間へ落ちた。
 古本屋の向い側に一軒衛生薬具販売店があった。ショー・ウィンドウにいろいろゴム製品と封された薬品が並べられていた。黒のむぎわら帽をかぶり紺の組服《スーツ》が肩胛骨の上でなえた中年女がその店へ入って行き、白いうわっぱりを着た男に小さい紙片を渡した。それは彼女が週刊新聞『労働者生活』の隅から切り抜いて来たものだ。『労働者生活』は一ペニーである。鎌と鎚の組合せマークと「全世界の労働者よ、団結せよ!」と云う文句が毎号刷ってあった。
 衛生薬具販売店の男は藍色のパンフレットを五冊大きな封筒に入れその女に渡した。女は去り、濡れたコンクリート床へさっきの紙切がとんではりついた。「産児制限。無代進呈。女性への忠言、産児制限、効用並害悪、良人と妻の便覧、妻の知識、以上五冊の有益なる医学書を最も有効にして無害なる産児制限具の図解カタログとともに無代進呈す。チャーリング・クロス九五番。衛生薬具販売店」。
『労働者生活』購読者はその死亡広告に現れる平均年齢六十九歳というタイムスの読者のように家庭医というものは持っていないのだ。だからこれは衛生薬具店の商売法として合理的な性質を帯びた一つの儲け方なのだ。が、それ等のパンフレット第三冊にある哀切な笑えぬ笑い、近代の貧乏について果して何人の英国諧謔家がその同感をよせているであろうか。「衛生的貧者の友」と名づけられるゴム製品がある。それは強靱な厚いゴムによって作られ、特殊な装置によってそれ一つを伸せばワッシャブル・シースとなって夫のため、巻きちぢめればペッサリーとなって妻のため「かくて数年間使用に堪ゆ。資力に限りある者にとっては最も適当、実用的なるものなり。」

 日本女は再びトインビー・ホールの受付へ白封筒とともに現れた。そして水色の服を着た受付の若い娘の後について育児相談室、職業相談室その他を見て廻った。月曜日だ。が、主事は留守だ。相談をもって来る筈の人々も留守だ――どの室にも誰も来ていない。がらんとした室の奥にテーブルがあり、その前で鼻眼鏡をかけたレディが一人で何か記入している。九月になれば講義の始る狭い講堂ではちりをかぶった床几が夜明け前のカフェーだ。窓からさし込む八月の午後の光が灰色の壁の上に逆に立った床几の脚の影を黒くうつしている。何とも云えずあたりは静かである。
 別棟に真中が磨滅した石の階段がついている。階段は危っかしく暗い。そこを登る時はすっと涼しくなった。左手に木の低い戸が半分開いて年とった女の声がした。内部も天井が低く室全体が陰気で暗かった。黒くよごれた裸のテーブルと床几が並んで粗末な白い茶碗がそこここに出ている。暗い奥に前垂をかけた働き婆さんが二人だけいて天井に声を反響させながらしゃべっていた。トインビー・ホールへ来る「彼ら」は二ペンスの茶をこの中で飲ませて貰うことが出来た。
 ――これは改良する余地がありますね。すると水色服の娘は直ぐ快活に答えた。
 ――けれど無いよりはこれでもましなんです。
 中庭に隣接した高い赤煉瓦の建物の裏を見上げた。鉄のバルコンと無数の洗濯ものがそこにある。青々と蔦のからんだ建物は云わば主家である。民衆教育の開拓者トインビーが十九世紀にここを建てて以来の細い廊下がその内部をぐるぐるうねっている。窓は鉛条入りのはめきりガラスで当時からとざされたまんまだ。教会内陣めいたその廊下の壁にいくつも写真がかけてある。案内の娘はそれを指しながら満足気に説明するであろう。
 ――これが一九三〇年[#「三〇」に「ママ」の注記]にとられたものです
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