フタヌーンティ》を飲んでいる連中は知らずにいられないのだ。そこへ来て一人のきたない酔っぱらいがころがったことを。だが誰もそっちは見なかった。誰一人見ない。それがこの社会の行儀なのだ。ただ反対側の草の上へ菓子のかけらをまきそれへ雀が群がりよると微笑した。
 酔っぱらいは草の上へひっくる返っていた。やはり永い間そうやっていた。やがて交る交る膝をついて立ちあがりふらつきながら鉄柵へもどった。然しそこをあちらへは出られない。片手をあげて鳥打帽をぐいと額の上へかぶりなおした。満足した人々はいい装をして静かに草の上で茶を飲んでいる。酔っぱらいはあるき出した。給仕が盆をかついでとおる道の上を――テーブルとテーブルと、ひよけ傘とひよけ傘との間の道を黙ってふらつきながら歩きだした。人々は自然な要求で酔っぱらいの方を見た。が、風体を見ると彼等は云い合わせたように一目で眼をそらした。品のいい話声。茶碗の音。笑声さえするそれは不思議な無人境だ。酔っぱらいは黒い存在と自身の重圧に苦しみながら動いて行った。
 行手のプティング・グリーン(球遊びリンク)で英国家庭の見本が午後を楽しんでいる。二人の息子をつれた夫婦と元気な老母づれの青年は軽くクラブを振りながら小さい球を草の間の穴へ打ちこんだ。
 セント・ジェームス公園にも、グリーン公園の草原にも、彼等のからだのまわりの草の上へ煙草の吸殼を散らしながらほとんど一日そこで日に当っている失業者がたくさんあった。或者は眠った。草へ腹ん這いに突伏して眠った。減った靴の裏へロンドンの八月の草がそよいだ。グリーン公園の横通りでロスチャイルドが数十万ポンドの費用で邸宅修繕をしていた。だが、その起重機の音は公園の樹蔭までは響かない。――

 書店のショー・ウィンドウ裏の新聞雑誌売場。一八六九年創立の『グラフィック』。一九〇七冊目の『スケッチ』その他。吊したり積んだり斜かいに立てたりした刊行物の洪水の奥に、ダブル・カラーの男が胸から上だけ出して立っている。男の手にある小型の雪掻きのような道具が小銭をのせて引込み、新聞と釣銭をのせてふたたび現れ、活溌に印刷物の上を往復した。印刷術の進歩と六ペンス・ロマンスに対する欲求の膨張が売子と買いての距離を広くした。伸びる手の長さでは間に合わなくなったんで、こんな道具が出来た始末である。
 日本女はそこで或る朝『デイリー・ヘラルド』を買おうとした。売切れた。翌朝また出かけた。また無い。売子は代りに『タイムス』を小型雪掻きの上へのせ突出した。
 見事な紙に二十四頁刷ってあるタイムスは四ペンスである。これもたまにはいい。何故ならTHE《ザ》という定冠詞とTIMES《タイムス》という名詞の間に獅子と馬の皇帝紋章が楯をひろげている第一面の下は、全部個人広告欄だ。外国人は時々それを見ることによって、少くともローヤル・アカデミー会員の描いた肖像画展覧会に於けると等しく、英国のあらゆる位階勲等を学ぶことが出来る。包紙としてもなかなか丈夫で役に立った。然し日本女は『デイリー・ヘラルド』を欲しいと思う。
 ホテルの玄関は石張りである。そこへ若い女が膝をついてしゃぼんをつけたブラッシュと雑巾を手にもって床洗いをしている。鍵番の爺さんに日本女は明日の朝から『デイリー・ヘラルド』を配達して呉れと云った。するとその金ボタンの大入道は小さい日本女を見下しつつ、云った。
 ――それは労働党新聞です、|お嬢さん《ミス》。
 ――知っている。それがほしいんです。
 ――デイリー・ヘラルドを?
 ――そうです。
 ――かしこまりました。
 翌朝室の戸をあけたら、靴の上にきちんとのっかっているのはデイリー・メイルだ。
 ――貴方デイリー・メイルをよこしたのね。玄関へ行って日本女は云った。
 ――あれならいらない。デイリー・ヘラルドよこして下さい。……きっと、ね?
 ――かしこまりました。|お嬢さん《ミス》!
 次の朝は――もう何にもよこさない。
 ラムゼー・マクドナルドの髯の大さはこの頃一種の目立ちかたをして来た。政権をとっては左であり得ず、またそのような「分らず屋」でもないことを英国の資本主義と保守とに向って事実上表明しつつある労働党が、山の手では今なおかくの如く左翼であり得るのだ!

 皇室厩《ローヤルステーブル》には細かい砂をまいた広場と蔦のからんだ幾棟かの建物がある。シルクハットをかぶった男と訪問服の女づれがぞろぞろそこを歩いていた。皇帝ジョージの愛馬はアスファルトで爪を傷めぬようにゴムの蹄鉄をつけられている。それを覗こうとした一行に向ってよく手入れされた動物はゆっくり尻の穴をひろげ楽しげに排泄作用を行った。

「トロカデーロ」の喫茶室は昼でも人工の間接照明だ。眉毛を描いたピエロが赤絹の飾帯を横へたらしてロマンスを唄って
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