の折りかえしが糸になっていた。

 午後のテームズ河を小蒸汽がさかのぼりつつあった。小蒸汽はキュー植物園《ガアデン》で一日暮したが帰るに自動車を持たぬロンドン人を甲板に並べた椅子に満載している。白い手袋をはめさせられた女の子が椅子の上で日曜着の膝に落ちた煤煙をふき払った。河上は風がある。ウェストミンスタア橋に近づくと、河の水からやっと這い上ったばかりの猫が一匹コンクリートの河岸のでっぱりの上で盛に上を見ながら鳴き立てていた。河岸まで遠いが猫がずぶ濡れなことや鳴けるだけの力で鳴き立てている事は進行中の小蒸汽の上から分る。甲板にある多くの顔がそっちを見た。一二間わきへよった河岸の欄干に体をもたせて半ズボンの少年がその溺れそこなった猫を見下している。猫のやっとしがみついて居るところから河岸の土までは高くて垂直だった。

 ピカデリー広場でイルミネーションがちらつく時刻である。郊外からロンドン市へ向う街道という街道の上を自動車があらゆる型を並べて疾走した。そして月曜日の夕刊新聞は左の報告と記事とをのせるだろう。週末《ウィークエンド》の自動車事故何件。死傷何人。先週より何%増。
「娯楽《プレジュア》ドライヴは果して窃盗罪を構成せざるや」
 ロンドンで自動車運転許可は郵便局へ五シリング払い込めば貰える。だが運転すべき自動車そのものはハロッズで売っている玩具でも五シリングよりは高い。
 近代|倫敦ボーイ《コックニー》のある者は生涯到来することなき自動車購入の時節を空しく待ったりしないで、たとえばこの土曜日の夕方だ。|山の手《ウエスト》をぶらぶら歩きしていた十六歳のジョンソンはふと或る門の前に止った一台のオウバアンを認めた。二人乗用《トゥシータース》の新型で、何だか短いスカートから出ている娘の膝っこみたいな車だ。素通り出来ないような型の車を道端に乗りすてたミスター・ウィリアムズの不幸でジョンソンはそのオウバアンに乗っかった。はしった。大いに冒険心と快適な娯楽心とを満足させ夜更けてから元の門近くまで戻って来たところで腕を捕まえられた。が、オウバアン一台を盗む意志はないのだし、事実盗んだのではないし、ジョンソンは既に何十人かの先輩の例にならって一寸|娯楽《プレジュア》ドライヴに借りたんです、と肩を上げたり下げたりするだけだ。
 この新型ヴァガボンドはすでに幾多の英国紳士を胆汗過多におと
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