とんだ嘘八百だ! 青年は「男」で女が可愛い「女」だからじゃないか。生物学の仕業だ。弓の玩具なんぞふり廻してまだ一人前の男にもなってないキューピットの果して知ったことか? 聴衆はパイプを口からとって、地面へ唾をはいて、笑っている。
 離れた草原で女たちが真上から日に照らされながら足を投げ出していた。子供がいれた胡麻粒みたいにその間をはねてる。路傍演説なんぞ聴く女はほとんどなかった。
 池では貸ボートが浮いてる。一人や二人でのっているのはごく少い。五六人ずつで、水の上を動いて低い橋かげをくぐる時なんか歓声をあげている。
 ハイド・パアクの池は広く、遠い河のようだった。みぎわを葦がそよいだ。水禽《みずとり》が人々の慰みのためキラキラ水玉をころがして羽ばたきをしたりくちばしで泥から餌をあさったりしている。
 ヴィクトリア公園で池は狭い。一寸行くとボートは島みたいなものにぶつかったり、橋げたにすいつく。それでも、市《シティー》大会社の腰高椅子や卸問屋の地下室から来たらしい若者達はコンクリートではない水をバチャバチャかきわけ、空気と日光を感じて日曜を笑っている。
 乳母車。これを押す男女。子供。車輪付椅子、並木路は一杯である。或る女は日曜のエナメル靴を穿いたりしているのだが、この行列《パレイド》は見えない何かを一緒に後へ引っぱって、練り歩いている。日曜が年に五十二度あるという暦だけでこの付ものは消えない。日曜だってヴィクトリア公園の子供の顔は逆三角で、二つでも大きい子が小さい方の子の世話をやきやき並木路を練って行く。ここでは子沢山である。|山の手《ウエスト》の公園で五人も子を連れた夫婦はなかなか見つからない。この並木路の上では子供がひとりでに分裂してまた子供をこしらえでもするように子が多くて、親は二人で、それが最後かあるいは後三人の最初か分らぬ、最近の子を乳母車にのせて押して行く。
 ダリアばかり咲いた花壇の横で若いものがテニスをやっている。六つばかりの男の子が網にしがみついて見ている。飽きず見ている。二人の子をつれて先へ歩いていた親たちが道を角で立ち止ってこちらを見た。
 ――ジョーン!
 網目へ両手の指三本引かけて鼻をおっつけたまま子供には呼声が聞えもしない。山高をかぶった父親が小戻りして来た。
 ――ジョン!
 ぎゅっと子供の手首を引っぱって網からはがした。彼の背広の襟
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