細長いようにとんがって長い。それから時々ショー・ウィンドウ硝子板の世界的近代商業の輝きの隅に、純然たるイギリス風なあるものが現れた。それは頭に小さい王冠をのせた黄金の獅子と一匹の馬とが左右から一つの楯にしがみついている紋章である。これと同じものがバッキンガム宮殿の門扉の上にあった。リジェント街一〇〇番の洋服裁縫店のショー・ウィンドウにある。ある馬具屋の窓の上に、リプトン紅茶の小箱の上にある。「皇帝御用指定商《バイ アポイントメント トゥ ヒズ マジェスティー ザ キング》」リプトンはセイロン島の土人に茶を拵えさせながら、ヨーロッパのヨット界の親玉になっている。
八月のロンドンの空気は乾燥している。毛織物を食う虫はこの空気中では湧かないのだそうだ。だが、かわいた空気はざらついた。そして喉の奥を引っかいた。そういう空気を押し破って下町から山の手に、山の手から下町へ陸続進む乗合自動車《オムニバス》の運転手はどれも若い、壮年だ。白っぽいうわっぱりを着て、プリンス・オヴ・ウェルスもそうであるように、一寸赫みがかった横顔で高いところへ坐っている。タクシー運転手も同様に白いうわっぱりを着ているが……だが何故こんな爺ばかりなのだろう。窓から見ていると、ロンドン市のすべてのタクシーは旧式に、すべての運転手は年寄に、と決議したようだ。八月の風邪を恐れるように幌をしめた箱馬車型タクシーが炎天下へやって来る乗合自動車《オムニバス》と並んで停る。うわっぱりのだぶついた胸へ番号札を下げた運転手はどこやらあおい瞳がすでにうるみかけた爺さんだ。また来る、止る。爺さんだ。爺さんの運転手は元気な乗合自動車《オムニバス》の巨大なずうたいに向って彼のエンジン付馬車をならべ、はからず、労働市場の淘汰見本を現出している。しかし彼ら自身はこれにたいして懐疑的でない。
泰然として進化《エヴォリューション》を信じ、疑わないような群集をつっきり、日本女はある角で乗合自動車《オムニバス》を降りた。小さい飲食店に入った。
色とりどりにふんだんな野菜がある。
白レースを額の前につけ黒絹靴下できりっとした給仕女である。
そしてタイル張の床の上でそういう給仕女もテーブルにむかって坐っている客達も一種特殊な技術でたくみに各自の声の限度を調節してやっている。
――何を上りますか?
給仕女の声は自然であって自然でない。
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