』を買おうとした。売切れた。翌朝また出かけた。また無い。売子は代りに『タイムス』を小型雪掻きの上へのせ突出した。
 見事な紙に二十四頁刷ってあるタイムスは四ペンスである。これもたまにはいい。何故ならTHE《ザ》という定冠詞とTIMES《タイムス》という名詞の間に獅子と馬の皇帝紋章が楯をひろげている第一面の下は、全部個人広告欄だ。外国人は時々それを見ることによって、少くともローヤル・アカデミー会員の描いた肖像画展覧会に於けると等しく、英国のあらゆる位階勲等を学ぶことが出来る。包紙としてもなかなか丈夫で役に立った。然し日本女は『デイリー・ヘラルド』を欲しいと思う。
 ホテルの玄関は石張りである。そこへ若い女が膝をついてしゃぼんをつけたブラッシュと雑巾を手にもって床洗いをしている。鍵番の爺さんに日本女は明日の朝から『デイリー・ヘラルド』を配達して呉れと云った。するとその金ボタンの大入道は小さい日本女を見下しつつ、云った。
 ――それは労働党新聞です、|お嬢さん《ミス》。
 ――知っている。それがほしいんです。
 ――デイリー・ヘラルドを?
 ――そうです。
 ――かしこまりました。
 翌朝室の戸をあけたら、靴の上にきちんとのっかっているのはデイリー・メイルだ。
 ――貴方デイリー・メイルをよこしたのね。玄関へ行って日本女は云った。
 ――あれならいらない。デイリー・ヘラルドよこして下さい。……きっと、ね?
 ――かしこまりました。|お嬢さん《ミス》!
 次の朝は――もう何にもよこさない。
 ラムゼー・マクドナルドの髯の大さはこの頃一種の目立ちかたをして来た。政権をとっては左であり得ず、またそのような「分らず屋」でもないことを英国の資本主義と保守とに向って事実上表明しつつある労働党が、山の手では今なおかくの如く左翼であり得るのだ!

 皇室厩《ローヤルステーブル》には細かい砂をまいた広場と蔦のからんだ幾棟かの建物がある。シルクハットをかぶった男と訪問服の女づれがぞろぞろそこを歩いていた。皇帝ジョージの愛馬はアスファルトで爪を傷めぬようにゴムの蹄鉄をつけられている。それを覗こうとした一行に向ってよく手入れされた動物はゆっくり尻の穴をひろげ楽しげに排泄作用を行った。

「トロカデーロ」の喫茶室は昼でも人工の間接照明だ。眉毛を描いたピエロが赤絹の飾帯を横へたらしてロマンスを唄って
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