思う。
普通に聴衆を前においてする講演や演説には、聴きての動きと感情の反応がむきだしだから、誰しも聴いているものの心持の陰翳には敏感にならざるを得ない。その相互的な関係で、話しての生活的なものも試されて行くわけなのだけれども、ラジオには、いきなり聴きての賛成も不賛成も表示されないというところで、送り出す側は自身の優位に却って足もとを掬《すく》われている傾きがある。
適当な場合、適当な表現で大きい言葉がラジオを通して私たちの日常に入って来れば、それは歴史的な意味にも或る内容と感銘とを伴った時代の言葉として心に刻まれると思う。しかし、最大の形容詞と最高の表現がくりかえしくりかえし、下らない落語の中にまで交って日夜反覆されると、それは自然、言葉としての生きた命を失って、ただのラジオの声或は騒音になってしまう。騒音には誰しもあきているのだから、調和のある音楽の音の方をより快適とするのも自然となる。
ラジオで、人間の社会的な生活の表現である言葉は、言葉としての命を常に溌剌として保てるよう、本気で考えられなければなるまいと思う。「わかりました」から「もう結構」に進み、やがて「わかった、わかっ
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