モスクワ日記から
――新しい社会の母――
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)並木道《ブリヴァール》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)八|哥《カペイキ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)チビ[#「チビ」に傍点]の自分には
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一九三〇年九月×日。
予約出版物の用事で「アガニョーク」社へ出かけた。白樺の粗末な板塀についた切り戸から入るようになっている。(普請中で。)
この間は人足が泥をほじっていた横の空地がもうちゃんと子供の遊場になっている。砂場、ブランコ、滑り台。こっちでは、丁度昼休みで、「アガニョーク」の若い男女の連中がシャツ一枚になって新しい遊び場を早速利用しボールをやって遊んでいる。子供の笑い声、青年たちの笑声。秋空が澄んで、大きい菩提樹の梢が気持いい日光の下で黄ばみかけている。
この頃のモスクワと来たら、一ヵ月も見ないともういつの間にか、町角の様子なんかガラリとかわっちまう。新建築の板囲いが出来る。道路拡張で目じるしにしておいたボロ建物がとりはらわれる。歩いているうちに此方まで元気になって来るような建設の活気がモスクワ中に溢れている。
並木道《ブリヴァール》を家まで歩いて帰った。
爽やかな秋風の並木道《ブリヴァール》のベンチに女がゆっくり腰かけて、繕いものをしながら乳母車にのせた赤坊を日向ぼっこさせてる。乾いた葉っぱの匂い、微かな草の匂い。自動車やトラックは並木道《ブリヴァール》のあっちを通るから、小深い樹の下は静かで柔かい日光がさしとおしている。
乳車《ちちぐるま》と女とはどのベンチにも沢山いる。
日本も子供が多いが、何とモスクワも子供がどっさりいるんだろう!
並木道《ブリヴァール》をもう三年間も歩くのだが、いつも自分の心に新しい感動がある。それはこれだけの子供が、ソヴェトの社会、合理的な社会主義の社会では、だれ一人として社会の保護なしに偶然には生れて来ないということだ。
一人一人の赤坊が、母の腹にやどった時から、生きて育ってゆく権利によって生まれている。
こうやってスヤスヤその上で眠っている乳母車にしろ、着ている小さいケットにしろ、わきで楽しそうに赤坊の繕いものをしているいろいろな年頃の母親の自由な、経済的に保証された時間にしろ、みんな個人がただ金の力ずくでとったものではない。職業組合やソヴェト保健省が、つまり解放されたプロレタリアート自身が、社会連帯によって強く次の時代を保護しているのだ。
九月×日。
電車の窓から一生懸命街の様子をのぞいて行く。というのは、別に珍しいものがあるわけではない。電車をどこで降りていいのか、その見当を見覚えのある工場の塀でつけようというわけだ。
(モスクワの電車は、乗る時はきっと後部からだ。すぐ女車掌が切符の束をもってドアのわきに立ってる。乗る。直ぐ八|哥《カペイキ》(八銭)出して切符を買う。そしてズンズン中へ入り、運転手台の方から降りる。女車掌がだから走っている電車の中を苦しい思いして歩きまわって、切符を売らないですむ。ひどく混んで、電車に乗るやドシドシ押され、切符を買う間がなくてズッと真中へ押し込まれても決して心配はいらない。八哥出して、自分の隣りに立っている男にでも女にでも、
「どうか一枚切符買って下さい」
とたのむと、その人が、次へ、またその次へ、八哥は手から手へ、女車掌のとこまでキッと届く。同じようにして、切符が自分のとこまでやって来る。どんなに混んでも、度々でも、釣銭までも、集団的訓練のあるモスクワ人は間違いなく、こうして互に助け合う。)
ところで、サリヤンカの手前で電車を降りて、先へ先へと行くが、ちと工合が変だ。左へ曲る通りなんぞない。
塀の修繕をやっている労働者に、
「クララ・ツェトキンの名による産院はどこだか知りませんか?」
「そりゃ、ウンと来すぎた」
高いキャタツの上で、手をふりまわしながら教えてくれた。停留場から戻るのを、逆に来てしまっている。
この辺は一帯古い街だ。芝居の広告、「文学の夕べ」等のビラの貼ってある煉瓦塀について曲ると、びっくりして自分は袋小路のつき当りを見た。
真白な素晴らしい建物だ! 芝生と鉄柵にかこまれてある。近よると袋小路ではなく路は建物について左右にわかれている。高い破風に金文字で「クララ・ツェトキンの名による産院」。
正面のガラス扉をあけて入ると、受付だ。外観が清楚でおどろいたが、内部のこの清潔さはどうだ! タイルを張った受付のところでも、直ぐ見える階段でも、真白で、靴からこぼれた泥らしいものさえない。
白い布《プラトーク》で頭を包んだ女に、自分は対外文化連絡協会からの手紙を渡した。
「一寸まって
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