下さい」
 暫くすると、白い手術着を着た若い医師が手紙片手に出て来た。
「院長は今日保健省へ行きましたが、当直医員の案内でもいいですか?」
 自分は、体を見て貰うのじゃない。ソヴェト同盟では、あらゆる勤労婦人に出産前後三ヵ月から四ヵ月の有給休暇を与える。出産支度料を月給の半額まで支給する。九ヵ月間牛乳代を貰える。そして、各区の産院は無料だ。
 その産院を、現実にこの眼で見学したくてやって来たのだ。
「勿論結構です」
 奥から看護婦が白い上っぱりをもって来てくれた。チビ[#「チビ」に傍点]の自分には長くて靴の爪先まである。
 いよいよその医員に従って廊下に出たが、自分は全く往来を歩いたまんまの靴でそこを歩いてもかまわないのか、と心配した。どこもかしこも、それ程清潔なのだ。
「まずここで、体を診て貰うんです」
 入口廊下から直ぐの小ぢんまりした室だ。婦人科用寝台、その他がそなえつけられて、大きい窓からキラキラ日光がさし込んでる。
「いよいよ出産が近いとわかると、この室で」
 次の室の戸をあけて内部を見せた。
「風呂に入ったり、髪を洗ったりして、すっかり産院の衣服にきかえて貰います」
 最新式の設備でシャワーがある。風呂、体重計量器。
「次は、陣痛室ですが……」
 戸のハンドルをそーっとあけた。広い、白い壁の室だ。足と足とをつき合わせる位置に、ひろく間隔をおいて、幾つも寝台が並んでる。どれも真新しいシーツにおおわれ、いざと云えば直ぐ役に立つように出来ている。入ったところの寝台へ一人若い女が白い産院の服を着て臥ている。痛む最中と見え、唸って、医員の手をつかまえ、自分の手までひきよせた。
「苦しいんですよ。――私死ぬんじゃないかしら……ほかの人はもうみんな分娩室へ行ったのに私一人こんなにして、あ、あ、あ……」
 おかっぱの金色の髪がもしゃもしゃになって汗を掻いた額にくっついている。自分は困って、
「安心してらっしゃいよ。ね。ここにいれば大丈夫なんだから……気を落付けなさい」
 医師は脈を見た。
「あなたは初産だから、ほかの人より時間がかかるんです……安心していらっしゃい」
 そこへ、看護婦が入って来た。後からしずかに唸っている若い産婦の背中を撫ではじめた。
 分娩室では、丁度今五人の産婦が世話をされているところだ。助産婦が敏捷に体と手とを働かしながら、単純な優しい、励ましの言葉をかけてやっている。激しい、生《いのち》の戦場だ。
「――説明をおとしましたが、ここはみんな普通の、つまり健康な母親たちの棟です」
 病室が三つある。産後のやつれは見せているが、一様に穏やかな満足げな目附をした母親たちが、カーテンで程よく外光を調節した寝台に休んでる。或るものは起きかえり、自分のダブダブな上っぱり姿を眺めて笑っている。
 赤坊たちは、母親とは別室だ。ズラリと揺籃を並べ、小さい胸元に金の番号札をつけて眠ったり、欠伸《あくび》をしたり、元気のいい赤坊唱歌(泣くこと)をやったりしてる。
 赤坊たちの胸に光ってる金の番号札が、母親の寝台番号だ。三時間おきに、保姆がめいめいの寝台に赤坊をつれてゆき、お乳をのませるという仕かけだ。
 見ると、頭に赤いリボンを大きくむすびつけた揺籃が三つばかりある。
「あれは何です? あの赤いリボンは……」まさか、生後二日目で、もう赤色勲章を貰ったわけでもあるまい。
「ああ、あれですか」
 委員も保姆も笑って説明した。
「あれはね、皮膚が少し弱くて、おタダレ[#「おタダレ」に傍点]のある赤ちゃんなのです、おむつ[#「おむつ」に傍点]があのリボンのは特別なんです」
 廊下を曲りくねって厚いガラス戸で仕切ってあるところへ来た。
「その上っぱりを脱いで下さい」
 脱いで、その仕切りを彼方側へ入ると、また別な上っぱりを着せられた。
「ここからは、病気のある――軽い性病のある母親の棟です」
 分娩室は今空だ。隅に大きい照明燈があっち向に立ってる。
「母親の病室は同じですが……われわれは赤坊に深い注意を払っています」
 赤坊室で、自分は強い印象をうけた。
 ソヴェト同盟の親切な、生活的な科学的考慮が実にこまやかに行われている。性病のある母親から生れても、例えば梅毒の遺伝のある赤坊も、全然それのない赤坊もある。その区別をハッキリ赤坊室を別にしてつけてある。
 遺伝のあらわれている赤坊が五六人しずかに、然し一目でわかる血色のわるい皮膚をして眠っている奥に、行って見るともう一つ特別室がある。そこの戸をあけたら、医員の白い上っぱりも一時に紫っぽい色に変った――すっかり窓が着色ガラスで張られているのだ。
「御承知の通り、性病の遺伝のある赤坊はよく眼が弱いものです。普通の日光では刺戟がつよすぎて害があるから、こうして育てるわけです」
 どの産院でも、出
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