につつまれているが、文学批評は古くない。ただYにとっていくらかの困難がある。というのは、すべて文学批評の本が、小説とは違ういやに読みにくい活字で印刷されている通り、講壇の上においても、ペレウェルゼフの言葉は、Yの聴覚と調和しがたい。それでもYは、日本からの黒いおかっぱ[#「おかっぱ」に傍点]を、やっぱりごみだらけの講堂にあらわす。そして十九世紀のロシアにおける貴族文学、中流文学、民衆の文学について話されているはずのものを聴くであろう。
 私は、その間ホテルの室にいる。貴重な独りの時間を貪慾に利用しようとする。
 それから、ロシア語初等会話を、B夫人についてやる。――
 モスクワにきて私の深く感じたことが一つある。それは、現代のСССР《エスエスエスエル》が外国人の旅行者に対して、どんな行届いた観光《サイト・シーイング》の案内役を設けているかということだ。モスクワの停車場へ下りる。午後三時迄の時間であったら、彼はタクシーをやとい、まっすぐ、マーラヤ・ニキーツカヤ通りの対外文化連絡協会《ヴオクス》へ行けばよい。もとは金持の商人の邸宅であったその建物の、下の広間の、隅の事務机に向って歩け。そこには髪の黒い、眼の大きい美しい二十七歳の女が坐っている。彼が日本語とイタリヤ語以外の言葉を話せば、翌朝から彼が丁度茶を飲み終ったという時刻に、協会から案内者《ガイド》が派遣されるであろう。彼が二日モスクワにいるならその二日で、一日だと云えばその一日中に、案内《ガイド》によってСССР風の観光《サイト・シーイング》――工場、革命博物館、基本的小学校、農民の家、さらに夜は大劇場の棧敷にならぶ一九二八年モスクワ風俗までを見せて貰うことが出来る。
 対外文化協会ですべての人と英語で話す。英語の案内《ガイド》をつけて貰う。そしてたとえば製菓工場|赤き十月《クラースナヤ・オクチャーブリ》へ行く。工場内の託児所の優れた設備を見、図書室、クラブを見せて貰い、読めないスローガンの貼られた壁を眺め、その文句のあるものを説明され、働いている人々に向って外国女らしい愛嬌笑いをして見せたところで、それは何を意味するであろうか?「なるほど、ロシアにはこのような施設がある。さすがだ。」これはむしろ甲の成績だ。
 飛石のようにСССР全生活の深い水面から頭を出しているこれらの施設観光だけで、私は満足することができない。私が初めて「コサック」を読んだ頃から、「二十六人と一人」を読んだ時分から、私の心に生じていたロシアに対する興味と愛とは、十二月のある夜、つららの下った列車から出て、照明の暗い、橇と馬との影が自動車のガラスをかすめるモスクワの街に入った最初の三分間に、私の方向を決めた。できるだけ早く自分の英語を棄ててしまいたくなったのだ。
 私は、いそいではどこもみまい。私は、私の前後左右に生きるものの話している言葉で話そう。そして、徐々に、徐々に――私はわが愛するものの生活の本体まで接近しよう。

 二月の夜八時、芸術座の手前の食堂《ストロー※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]ヤ》からある印象を抱いて出て来る。変に淋しい家であった。そこには、たった一人、ピストルを今鳴らされたばかりみたいなポーランド爺がいて、背広で、給仕した。帰る時、その家の猫がYの手袋をくわえてテーブルの下へ逃げ込んだ。
 トゥウェルスカヤ通りへ出ると、街全面がけむたいようで、次第にそれが濃くなって来た。霧《トマーン》。霧《トマーン》。

 霧《トマーン》は、天候の変る先ぶれのラッパだ。翌日街へ出て見たら、すべての橇馬の体で汗が真白い霜に凍っている。通行人のひげも白い。本物の「赤鼻のモローズ」がモスクワの街へ降りた。

 午後三時半、日が沈みかけた。溶鉱炉の火玉を吹き上げたように赤い、円い、光輪のない北極的な太陽が雪で凍《い》てついた屋根屋根の上にあり、一本の煙筒から、白樺の黒煙がその赤い太陽に向ってふきつけていた。
 ブルワールも樹立も真白だ。黒く多勢の人々が歩いて行く。それらの人々は小さく見えた。

 五時すぎ、モスクワの月が町を照す。教会の金の円屋根《ドーム》がひかった。月の光のとどかない暗い隅で、研屋の男の廻り砥石と肉切庖丁との間から火花が散り、金ものの熱する匂いがした。
 赤い太陽の沈んだのと十三夜の明るい月の出との間がまるで短く、月は東に日は西に。北にあるらしい都会の感興が自分を捕えた。
 それは、然し天のこと。――街上は夕闇の中に人。人。人。女乞食が栗鼠《りす》外套を着た女の傍にくっついて歩いて、
 ――可愛いお方、お嬢さん。小さい娘の為にどうぞ――ほんの一コペック――パンの為に――女は見向きもせず歩いて行く。りんご売の婆さんと談判している女が頭からかぶっているショールには、赤と黄色のばら
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