が咲いている。コムソモーレツが、СССР流行の皮外套を着て二人来た。日本女を見て、
 ――|上海から《イズ・シャンハイ》――
 彼らの読本には、「レーニンとリチヤン」という詩。メーエルホリド座では「|支那よ、吠えよ《リチキタイ》」。大劇場の「朱い罌粟《けし》」を皆が評判する。その中で、昔ながらの「蝶々さん」。――或は、いとも陽気な、チョンキナ、チョンキナ、チョンチョンキナキナ。長崎、横浜、函館、ホーイ!

 このような情景もある。
 暖い。街角の大寒暖計は六度だ。往来の雪がゆるんで、重く、歩き難い。午前の街上に日光がふりそそぎ、馬も滑りがわるいから体から湯気を立てて働いている。花屋の飾窓の氷がとけて、花が見えた。そばの壁に、婆さんと片脚ない男が日向ぼっこしている。よごれた歩道に沿って、ずらりと大道商人が肩と肩と並べている。新聞雑誌の売店《キオスク》、煙草屋、靴紐と靴クリーム、乾酪《バタ》屋、三文玩具や、糖菓《コンフェクト》、蜜柑屋《マンダリーン》。
 ――ダワーイ! |奥さん《マダム》、|好い《ハローシイ》、|新しい蜜柑《スウェージーマンダリーン》! 二十五《ドゥワツツアッチピャーチ》哥!(一どきに下って)二十《ドゥワツツアッチ》哥! ダワーイ!
 腕に籠を下げた人出の間を、水色制帽の技師が歩く。犬が歩く。子供が薬品店の飾窓の前の手すりにぶら下って粗製 Pessary を見ている。
 ジグザグ歩きをして、私はニキーツキー門《ヴァロータ》まで来た。一人のりんご売が丁度私の前で彼の商品を並べなおしていた。彼の背後から巡査が来た。巡査は何か云いながら、外套のポケットから右手を出し、りんごの一杯並んでいる小判型の大籠を無雑作に片方のとってで持ち上げた。りんごはきたない雪の上へころがり落ちそうになった。商人は慌てて自分で籠を上げた。――巡査は再び両手をポケットへ突込んで歩き出した。大道商人も並んで、りんご籠の重みで胸をそらせながら、親しげに巡査に顔を向け喋り、笑い、行く。――暫く歩いた時、彼等の行手を遮るようにして横丁から一台空の荷橇が出て来た。それを見てりんご売は一歩巡査をやりすごしたと思うと、いきなりその橇馬の鼻面を掠め、重い林檎籠を腹の前に抱えたなり、よたくり而も極めて手際よく、あっち側の歩道の人ごみの間へにげ込んでしまった。巡査が振り返る、車道の空間には、おっことして行った味噌こしざるみたいなものと一緒にまだ彼の笑顔が残っている。もう、樺色外套の背中は見えない。――
 自分は思わず笑った。これはロシア的だ。そして農民的だ。彼がうまくやったのが何だかユーモラスで、私はひとりでに笑えた。歩道に立ち止って見ていた者も笑っている。巡査は、別に追っかけようともせず、傷けられた表情もなくりんご売の逃げた方角を眺めていたが、両手はポケットに入れたまま、やがて四ツ角へ向って歩き去った。味噌こしみたいなものは、どこかの物売女が拾った。

 ロープシンは自殺しなければならなかった。政治的見地からすれば彼自身、不幸な最後を予想しない訳ではなかったろう。然し、彼はロシアなしではもう生きておられなかった。だからかえって来た。そして死んだ。彼のこの激しい郷愁の原因はどこにあったのだろうか。
 またここに、「世界を震駭させた十日間」の筆者ジョン・リードがある。彼は饑饉時代に南露でチフスの為に死んだ。ジョン・リードは機敏なアメリカのジャーナリストとしての手腕の他に、他人ごとでない愛と興味をロシアとロシアの新生活に対して抱いていた。「世界を震駭させた十日間」に、彼はどんな私見もさしはさまず記録的に書いているが、記録蒐集のこまやかさと整理の印象的な点に、我々は彼がどんなにロシアに魅力を感じ理解していたかを知る。彼をひきつけ、我等を吸いよせ、殆ど眼を離させぬロシア生活の魅力とは、一体どこにある何ものなのであろうか。
 私はそれを感じる。モスクワの古く狭い街路の上に。群集の中に。或はホテルの粗末な絨毯の上を闊歩する代表員《デレガート》のキューキュー鳴る長靴の上に。スイッツルの旅行者はアルプスと碧い湖と林とを見る。何より先自然の美観が彼に作用し、各々の才能に従って三色版のエハガキのようにか、或は散文詩のようにか彼の印象記を書かせるであろう。ロシアには、このような意味の風光は無い。モスクワでは、例えば、古風な寺院の外壁のがんに嵌めこまれた十八世紀の聖画に興味をひかれたら、彼は必ず同時にその外壁の下でひまわりの種をコップに入れて三カペイキで売っている婆さんの存在をも目に入れなければならない。聖画の古さ、婆さんが頭にかぶったきたない布《プラトーク》、婆さんの前を突切って通行する皮外套の婦人共産党員《コムムニストカ》の黒靴下の急速な運動など――互に対照する人生《ジーズニ》の断面
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