が一目のうちにとび込んで来る。彼が若し、風景として感覚のうちにおどり込んで来るそれら人生《ジーズニ》の断片を吸収するだけの活々した生きてであるなら、同時に、そこから何か動きつつある民族的雰囲気というようなものを感得するのは、むしろ当然なことだ。
或る時、私はホテル・サボイの食堂に坐っていた。ホテル・サボイは外国旅客専門のホテルで、エレヴェーターボーイは英語で「おかけ下さい」と云い、給仕頭は白ネクタイをつけている。私の前には黒イクラとレモンをのせた鮭と酒がある。みな日本人である。半官的職業にたずさわる人々で、数年――彼等の経歴の最初のふり出しをロシアで始めたというような人もいる。革命前と後のロシア比較論なども出て、その論に対しては私の頭の中に夥しいクウェスチョンマークが発生したが、やがて一人が、忿懣を感じるような口調で云った。
「兎に角ロシアは泥沼ですよ、一遍足を入れたらもう抜かれやしない。その証拠にロシアで商売して金儲けした人間なんぞありゃしません。損に損する、それでいて、何故だかやっぱりロシアから足は抜かれない――全く泥沼さ」
この言葉は私の感情に、丁度母親の胸を蹴る赤坊の足の感じと同じ快い効果を及ぼした。愉快になって私は笑い、それは本当です、と賛成した。私は、ロシアの深さ[#「深さ」に傍点]、彼を憤らすその深さ[#「深さ」に傍点]とそれに伴う大きさ、重さを感じ知っている。そして、私は、彼とは正反対にその民族的なロシアの深さを殆ど熱情的に愛する。この深さ、大きさこそ、我等をこのように吸いよせ魅するところの、魅力の第一の胚であると思う。ロープシンは、フランスやスイスで、この一種特別な深さを見つけることができなかったのであろう。ジョン・リードの若いアメリカの眼は、この深さを理解し、民族のあらゆる天才と醜聞《スカンダル》の孵卵場をそこに認めたのではなかったろうか。いわゆるロシア気質のエッセンスとして文学とともに外国に流布していた合言葉、一九一七年以前の「ニチェヴォー」或は「|同じこった《フショー・ラヴノー》」革命後のすべての赤いもの[#「赤いもの」に傍点]、動的なもの、それらは何かの角度で、この深さ[#「深さ」に傍点]大さから発展した部分的なものである。
深さ[#「深さ」に傍点]。――だが、この言葉は漠然としている。私の感じでは、深さにも種類があると思う。例えば活動の字幕に、アフリカ大密林の深き[#「深き」に傍点]ところ、と云うタイトルが出たとする。私たちの受ける印象は必ず、地面の上から人間の頭上高く上へ上へ繁茂した木下闇の感じだ。深い。然し上へ向って深い。ロシア民族の持つ深さは、下へ向って底無しの深さだ。例えば、罰金のがれに巡査をうまく撒いたニキーツキー門のりんご売の行動、それを眺める周囲の見物人の顔つき、彼らの吐く空気とともに彼らの心情の底なしさが傍観している私の心に吹きつけて来た。その時居合わせた数人の見物の中に、小さな突発事を道徳的な見地や市の秩序という視点から批評しようとしたものは唯一人も無かった。私はそれを断言できる。ロシア人なら、彼等の心はそういう風には動かないのだ。間抜らしく而も的確に逃げたりんご売の心持、それを追っかけようともせぬ巡査の心持、総てを自分達の心持として理解し、笑う。よし、あし、は抜きなのだ。一人ドイツ人がいると雰囲気は変る。彼はたといそれがどんな小さい角でも事件に推理的ひっかかりをつける。何とか理窟が出る。ドイツ人が上に深い[#「上に深い」に傍点]ゆえん、ぴんからきりまでのおびただしい哲学者とカール・マルクスを生育させたゆえんだろう。
ロシアの民衆は彼等の人生をまず頭で、或は心臓の一歩手前で受けとめる道具として何ものも持っていない。イギリス的常識も、又は日本のいわゆる義理も。深く、深く、彼等の魂《ドゥシャー》に直接触れるまで、人生は彼の内に沁み込んで行くことを許される。魂《ドゥシャー》がそれに触れた時、彼は何と叫び出すか。どの程度に叫ぶか。それは彼自身知らないであろう。これは非常に興味ある民族の特徴だ。ゴリキーの「どん底」に出て来るすべての人間が面白い理由はここにある。彼等にいわゆる学問は一つもない。然し人生哲学はある。ひろい、様々な人生は絶えず彼等の魂《ドゥシャー》に触れて彼らをして叫ばせる。人生と各々の性格とが仲介物《ミディヤム》なしに結びついて生きている。故に、ロシアでは、乞食の児のようにして育って来た子供が、いつか文字をおぼえ、彼の深く敏感な魂《ドゥシャー》に従ってよき作家となることが、まれでなく在り得るのだ。例えば、「セメント」の作者の両親は何であったか。ヴォルガの浮浪労働者であった。幼年時代のグラトコフは、いわゆる教育は何一つ与えられなかった。然し、生きるにつれ、彼を取りかこむ
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