人生の波瀾と悲喜が彼の魂《ドゥシャー》を呼びさまし、呼びさまし、終に彼をして書かしめた。ドストイェフスキーを日本に於ける翻訳広告にはいつも人道主義作家と銘うつが、ドストイェフスキー自身はそんな気持なしに書いたのが、ここの周囲の生活を眺めると明かにわかる。ただ彼は、彼の病的な、然し敏感な魂《ドゥシャー》をはだかにして彼の生きたロシアの底なき生活の底へ底へと沈んで行った。ドストイェフスキーの人物は決して観念的なこしらえものではない。彼の作品中から最も異常な一人の存在を見つけて来ても、ロシアにならば[#「ロシアにならば」に傍点]そのような人物は実在し得るのだ。ドストイェフスキーが非難されるとしたら、彼自身の病的さによって、あまり彼の人物の描線に戦慄のあることだ。嘘を描いたことではない。
 私は一人の外国人だ。昔のロシアを知らぬ。ロシア民族史中最も活動的な、テンポ速き現代に於て、群衆の都会モスクワに住んでいる。それでさえも、或る時自分に迫る恐ろしいロシアの深さを感じる。つまり、ロシアで偏見をすてて自分の魂をそこにある人生に向けて見ると、たとえ福音書が唯物史観にかわるとも、生きて行く心持に於てドストイェフスキーのように、救命帯を抜ぎすてて下へ下へ人生の底なきところへ沈みきるか、トルストイの如く、魂を掴んだ最初の一つの大きな人生からの疑問をどこまでも手放さず追って追って追いつめて人生を自己の足の下からたたき上げて行くか、どっちかにしないでは生き切れぬことを感じるのである。そのように、ロシアの生活はつよい感情、つよい思索、意志するならば強大な意志を要求して旅行者の魂にまでよせて来る。ピリニャークは、日本でどんな不愉快な時を過したか、それをよむとよく分る旅行記を書いた。なかに、「日本は欧州人をはじき出す」という意味の言葉があり、自分は面白いと思った。ロシアは全然これと反対だ。ロシアは一旦そのうちへ入って来たら、自身の力でそれを把握するか、それに呑み込まれるか、兎に角異様に深いひろい複雑な人生が私たちを底知れず吸い込む。

 ロシアのこの深さ、底なき心が歴史的実証となって立って居るある光景がある。復活祭の夜チェホフがその欄干によってモスクワの寺院の鐘が一時に鳴り出すのを聴いたという石橋《カーメンヌイ・モスト》の方から或は猟人《アホートスイ》リヤードの方から、クレムリンの|赤い広場《クラースナヤ・プローシチャジ》へ出る。
 広場の雪は平らに遠く凍っている。クレムリンの城壁の根に茶色のレーニン廟がある。国家的祝祭の時使うスタンドが出来ている。今そこは空っぽだ。レーニン廟の柵の内で雪は特に深い。常磐木の若木の頭が雪の中から見えるところに番兵が付剣で立っている。入るのか入らないのか柵の附近の人だかりの外套は黒い。――クレムリンの城門の大時計は、十五分毎に雪の広場の上に鳴り、赤白縞の一寸しゃれた歩哨舎があった。そこの門から城内を見ると闊然とした空ばかりある。
 ――ここの景色は変だ。印象的に空ばかり見えるクレムリンのこの城門は、何故一直線に広場の首切台に向って開いていなければいけないのだろう。首切台は、円形で高い。ぐるりを胸壁《パラペット》がとりまいている。一方に出入口があって、石段から、斬られる人間が首をのばした小さい台と、鎖のたぐまりが雪に見える。プガチョフ以来、いくつもの人間の首がこの台の上で、皇帝《ツァー》のまさかりで打ち落された。裁きは「神の如く」この空なる門から首切台まで下されるという象徴か。
 クレムリンの城壁からは、赤い広場と首切台に向って黄金の十字架と皇帝の紋章が林立している。それらは叫喚に似ている。見廻すと、赤い広場を遠巻きにして殆ど八方の空に十字架がそびえている。十字架はこの広場で平和を表していない。恐怖を語っている。民衆の恐怖と支配者の魂にあった恐怖を示している。民衆はつめかける、海のように。首切台でまさかりはもう砥がれた。血は雪に浸みるであろう。神よ! 我等の父|皇帝《ツァー》よ! 慈愛深き皇后《ツァリーッツァ》よ! 城壁は厚い。内なる人は見えない。門は閉る。総てに対する慰安と答えとは、黄金の十字架と鷲――坊主と兵士が与えるであろう(?)
 我々は革命博物館に於けるより数倍の現実的効果で、一九二八年の赤い広場に前時代の史的実証をみるのである。〔十四字伏字〕。〔六字伏字〕。〔十七字伏字〕。〔六字伏字〕。〔六字伏字〕。〔二字伏字〕。(ツァーはクレムリンの城壁の上から幾本もの金の十字架をそびえさせて、人民の訴えから身をかくしていた。日本の権力者は、その皇居とされている地域のぐるりを封建時代からの濠でめぐらして人民と自分達とをへだてている、という意味が書かれていた。今日伏字を埋めることはできない。著者後記)濠の柳が水に映る。お濠の石垣か
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