。ここ、肺、ね。私は技術がないから他の働きができない。
サナトリアムは満員だ。日本には肺の悪い人がいるだろうか。流感《グリップ》がこんな置土産をしていった。三期になったらサナトリアムへ行けるだろう。そんな話をする。
廊下の白い壁に質素な円時計がかかっていて、半時間ごとに、彼女たちの頭のうえで時を打った。その時計の鳴る音を、日本女は床の中で眠らず六つまできくこともある。雪と煤煙とのモスクワ、きたなさのうちに美しさがある居心地よいモスクワの日の出は七時半だ。
一九二〇年には百二万八千であったモスクワの人口が一九二六年に二百一万八千に増大した。この結果、モスクワでは、四つの世帯がたった一つの台所しかない貸室《クワルティーラ》に生活を営み、あらゆる小学校は二部教授をさずけ、Yと私とはすでに二ヵ月、ホテルの一室に生活しつづけなければならないことになる。毎日、事務室《カントーラ》の青羅紗の上に、我々は六ルーブリの宿料と、一割の税とをおく。金庫をひかえて坐っているトルストフカの事務員が、一枚の受取をよこす。受取の裏には、普通のホテル取締規則のほかに、宿泊料は一日ごとに支払うべきこと、たまればたまった金高に応じ割合の高い税の附加されることを印刷してある。私があるいはYが、夜の第二十一時五十分になってハッと思い出し、最大速力で事務室《カントーラ》へかけ下りるのも、それ故無理ないしだいではないか。貸室《クワルティーラ》は一杯だ。ホテルには空いた部屋がある。そこへも行かずYと私が一室に起居をともにし、読書をともにし、通風口の開けられない夜中は、たがいのはく炭酸瓦斯さえわけ吸って居るのは、モスクワの人口過剰に比例して軽い我等のポケットが最大原因だ。我々は、シベリア鉄道以来の練習でできるだけたがいの存在を神経の埒外に放逐し、ながいモスクワの冬のよなよなを暮す。しかし、私はものが書けぬ。Yは無遠慮に発音練習をやることができない。これは不便だ。しかも、厳然たるわれらの経済が結論するところの不便だから、Yも私も、互に向ってヒステリーを起す権利がない。私は自分の内攻的ヒステリーを少し整理して、田舎者のハンカチーフのような青格子縞のテーブル掛の上で考える。
私の胸のうちでは日本が、極めて心臓に近い場所でなんともいえず脈々と動きはじめる。黙って頬杖をついてテーブル掛の麻糸のほつれをぽつねんとよってはいられなくなる。私はYを呼ぶ。
彼女は、縞の、シベリア鉄道でアメリカ女がそれを見て蔑視したところの、厚ぼったい、男もの見たいなうわっぱりの中から、私を振向く。私は多くの賢いこと愚かなことをとりまぜ、しゃべり出す。やがてYも椅子を向けなおし、彼女の常戦法である「違うよ、そうじゃあないさ」をもって進出してくる。それから後、我々がどんなに、どんなことについてしゃべるか――ホテルの薄緑色の壁ばかりが知っている。
この時、ホテルの廊下の隅の女中《ゴールニーチナヤ》のところでけたたましくベルが鳴った。戸棚の前で、女中は印度の詩人の室に撒く南京虫よけ薬を噴霧器に移した。女中はそれを下へおき、日本女の部屋の閉った扉を通って隣室へ行く。
三分後、白前掛をかけ、鼠色シャツを着た海坊主のような食堂給仕が、手すりにつかまり二段ずつ階段をとばして下から登ってきた。彼は若くない。肥った。息が切れる。新しくないサルフェトカで風を入れつつ六十二号、日本女の隣を開けた。ホテルにはプロフィンテルンの代表者が一杯泊り込んでいる。あちらにも代表員《デレガート》! こちらにも代表員《デレガート》! 代表員《デレガート》は長靴のまま長椅子に寝る。代表員《デレガート》の食事はただである。平常はテーブルに白い紙をかけ、色つけ経木造花で飾ってあるホテルの狭い食堂は、代表員《デレガート》がいる時食卓に本ものの布のテーブル掛がかかる。きちんと畳んだ新しいサルフェトカと、いい方の、光って重い揃いのナイフやフォークがいつ行って見てもならんでいる。海坊主の給仕は大盆をかたげ、あるいは空手で絶えず白前掛をひらめかせ代表員《デレガート》の胃袋充填をして廻らなければならない。彼は不機嫌である。
日本女は、茶が飲みたくなった。日本女は扉をあけ、廊下へ半身だした。隣室の扉も開いている。各々食物を注文する数人のがやがやする声と、海坊主が「|宜しい《ハラショー》、|宜しい《ハラショー》」答えている声がする。ついに給仕が廊下へで、日本女が口を利こうとした時、追っかけてさらに一人の代表員《デレガート》が室内から叫んだ。
――|持って来い《ダワイ》、ナルザーン(炭酸水)!
――…………|承知しました《ハラショース》…………………
Yはモスクワ第一大学へ教授ペレウェルゼフの口元を見つめにでかける。ペレウェルゼフの頤はごましお髯
前へ
次へ
全12ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング