速かな忘却と、無頓着を意味する。ロシアのイワンにそれは出来ぬ。彼はモスクワから何処かの村へ行かなければならない。停車場へ行った。切符売場への列が二廻りも待合室をうねくっている。予定の時間に立つ列車にもちろん乗りおくれた。次のにも怪しい。夜が更ける。然し、どっちみち明日の朝迄には立てるだろう。そう思って、最初の目的はすてずに彼の麻袋に腰かけて待っているのが、ロシアの、イワンの呑気だ。日本の呑気は、――やあ! こいつはおどろいた。えらい人だよ、止めちゃえ、やめちゃえ。馬鹿馬鹿しいや。それよかどっかへ行って――麻雀をするか、一杯ひっかけるか、それは彼の好み次第である。

 技師《インジェニエール》ルイバコフが建築した協同家屋《コオペラチーブ》は、クロポトキンスキー広場の角に立っている。粗末な木の塀の上にエナメルの円い番地札と四角い札がうちつけてある。四角いのには郵便住所モスクワ三十四、木の塀について居る切戸の柱に掲示があった。――門内ニ便所ナシ――然し、何にもならず夕暮や夜、狭い切戸の隙間から通行人がすべり込んだ。技師ルイバコフは人減らしで三月前国立出版所をやめさせられた妻と子と自分の妹、女中、一組の下宿人とで、その協同家屋《コオペラチーブ》の室《クワルテイラ》9に生活している。大きい室が二つ小さいのが二つ。台所、風呂場。四十年後に、室《クワルテイラ》は市民《グラジュダニン》ルイバコフの所有となるであろう。二ヵ月前までの下宿人はペルシア人の男とオデッサ生れの女で、男の本妻はペルシアにあった。彼等が出立して行った後、主婦は、熱情と南京虫を十八平方メートルの室から追っ払って、モスクワ夕刊新聞の広告欄を見た。
 ホテル・パッサージの日本女《ヤポンカ》が広告を出した。ルイバコフの室のバルコンと、女中のナーデンカの顔つきとが日本女を牽きつけた。ルイバコフは、カラーをとった縞のシャツで、タイプライターの契約書を二通作った。

 市民《グラジュダニン》ルイバコフのバルコンは、四辻の広場と乗合自動車の発着所を見下した。広場の中央に電燈入りの時計がある。深更、街燈が消えて暗いときにも時計だけは円く明るい。自分の窓から日本女はオペラグラスで午前二時半の字面を読むこともある。
 四月になった。窓から見えるクレムリンの赤旗はいきいきひるがえり始めた。空はあおい。白く小さい雲が空に浮き、日本女の狭
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