怖とを自覚していないように見える。ロシア史のあらゆる偉大な瞬間と恐ろしい瞬間は、心理的には、この山羊皮外套の中で体温高き民衆の飛躍性と深い関係を持っていると思う。
或る民族の持つ風呂によって、彼らの気質の一部を観察できるものとすれば、ロシア風呂は独特だ。日本のように湯桶の中で水を沸かすのでもないし、沸かした湯を寒暖計で計りつつ注ぎ出す科学的方法でもない。室がある。一方の隅に胸位の高さまでの石がある。それは焼石だ。真赤な焼石である。その焼石に、いきなり水をぶっかける。バッ! 水蒸気が立つ。忽ち水蒸気で室が一杯になる。その蒸風呂で、スラヴの汗とあぶらをしぼるのだが、焼石に水をぶっかける時、こつ[#「こつ」に傍点]がある。人は、必ず体をかがめ、下から焼石へ向って水をぶっつけなければならぬ。立って焼石に水をかける。一時に水蒸気が裸の体の胸を撃つ。人は死ぬ。――石が吸い込んだ熱、或はペチカの煉瓦の温みがロシアの人のあたたかさだ。
この温みが声帯を通って出て来た時、我々はいわゆるロシア的雄弁のいかなるものかを知る。雄弁法に於ても彼等は人生派だ。その言葉に耳を傾けさせようとするなら、先ず引例を彼等の脚にはいている長靴《サパキー》にとれ。詩的美文は彼等を魅するどんな力も持たない。
彼等の手は遅い。なかなかなぐらない。口は早い民衆だ。彼等は多勢の人が自分に注目するから、つい口を噤《つぐ》むという日本人の心持は全然知らぬ。自分の主張を一人でも多くの人に聴いて貰いたいからこそ話す。熱心になかなかうまく話す。又、民衆は言葉に対する一種の馴れと敏感さとをもっていて非常によい聴きてだ。人混みの中でもいつかしら際だった一つの声の云うことは聴いていて、野次る。或は賛成する。――批評があるのだ。これは、モスクワ市井生活の愉快な特徴の一つで、革命前は人口の約半数読み書きを知らなかった民衆が、いかに言葉で訓練されて来たか、言葉をふるいわける才能を磨かれて来たか、興味がある。若しロシアの民衆が昔からの一種特別なこの才能を持たなかったら、革命前後の状態は一九一七年に在ったようには無かったろう。それが音楽的にふるえるとシャリアピンに成りそうな大声でロシア的雄弁を爆発させるのを観て、呑気だと批評するのを聞く。而し、呑気の内容が全然ここでは違う。日本の呑気は、彼の心の表面に万事を軽く受けることである。或は
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