さぼるような眼付で歩いていた。彼女は今同じ坂道を馬車にのってゆっくり登って行きながら、三年の間に自分が何処ここを歩き、その度にいろんな違った心持を抱いて歩いてたかということを、はっきり感じた。どのソヴェト市民だってそんなに馬車には乗りゃしない。だから日本女だってやはり電車に乗るほど馬車にはのらなかった。今夜は特別だ。だんぜん特別だ。何故なら、彼女にはすることがうんとある。第一この膝の上に抱えている不恰好にふくらんだ書類入鞄の中から二本の瓶を出してストラスナーヤの角の家へおき、次に新聞包を六十八番地へ必ず置き、三十分後には「勇敢な兵卒シュウェイクの冒険」を観るために写実劇場の椅子に間違いなく坐ってなければならないのだ。しかもぎりぎり七時まで、彼女が両腕にものを抱えて歩道へ飛び出した扉の奥、三階の73という室で何をしていたかと云えば、日本女は床へころがした行李の前へ膝をつきながら正体の知れない白い粉にむせてくさめをしていた。慢性的にとり散らされた室の中ではタイプライターの音がせかせか響き、こんな日本語が聞えた。
――どうしてぐずぐずしてるのさ繩がかからないの?
――切れちゃうのよ、この
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