んじゃないじゃないか。
日本女の黒い眼が、焔の下の石炭のようにきらきらしだした。馬車へ再び足をかけながら短く、彼女は命令した。
――さ、巡査のところへ行こう。
御者は同じ様に挑戦的に応じた。
――行こう!
御者がさとらぬようにそっと口をあけて、日本女は何とも云えないおかしさでひとり笑った。だって、一体これを何と解釈すべきだろう。日本女をのっけた馬車は、今七時二十分、人の出盛っているトゥウェルスカヤ通りを逆にもときた方へ向って動いている。車道の真中には恐ろしい火山でも出来たようにぴったり歩道際へすりついて、四本の馬の脚でのろく歩けるだけのろく練っている。そんなにのろくさ歩くのは不自然でおまけに退屈だ。馬はひょいと普足《なみあし》になる。すると御者はあわてて手綱を引きしめ、のろのろのろのろ歩かせる。
むこうから来てすれ違う一人一人の通行人の顔が大写しになってかぶさって来るように感じる位ののろさなのだ。――御者奴!
それは、御者も商売からまるで間違った推測をしたのではなかった。この外国女は、第一ひどく急いでいるんだ、芝居へ行こうとしているんだと。サドー※[#濁点付き片仮名「ワ」
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