馬の背で柔かく鞭のような音をさせた。そして動き出しながらまたあっち向きのまま云った。
――三ルーブリ貰いますよ、こんなに待たされたんだから。
日本女は、モスクワにもう二年と六ヵ月暮してたのである。
――どんなに待たされたの? 爺さん。
(本当は爺さんでなく、まだ五十代のがっちりした馬車屋だった。)
――私のとこには時計があるのに――
――あんた、はじめこんなにより道するって云わなかったじゃないか。
御者は、農民なまりのない、いかつい声でおしつけるようにいい続けた。
――こんなによるんなら、誰にしたって五ルーブリは貰うところだ。
――考えてごらん、一本のトゥウェルスカヤを十町走るのに、どんなソヴェトの女市民が二ルーブリだすか。
――そんなこたあ関係しない。
蹄の音の間から、御者は大きな声でおっかぶせた。
――あんたは私に払う義務があるんだ。
――…………
――今日び馬を食わせるにいくらかかると思いなさる?
内外へ飛び交っていた日本女の思考力は、はっきり御者の上へ集注されはじめた。――おやこいつ、ほんとに三ルーブリせしめる気か?
ソヴェト・ロシアに「自動車化」という標語がある。ニージュニノヴゴロド市は昔からの定期市の他に、現代ではСССР第一の自動車製造工場で有名になった。そこで製作されるソヴェト・フォードは、小さい赤旗をヘッド・ライトの上にひるがえしつつソユーズキノ週報で先ず映画館の映写幕の上にころがり、つづいてモスクワの新造アスファルト道をもころがりはじめた。一九二九―三〇年に、モスクワの自動車の数は足りないながら殖えた。しかし、まだ忙しいモスクワ市民の需要と供給の比率は均衡からはるかに遠い。
その一方にこういう事情がある。燕麦の収穫が一九二九年は多くなかった。日本女は、今日び馬を食わせるのに云々という御者の言葉は、だからそれ自身としては十分信じ得る。そのことはこの頑固そうな中年男が云うばかりでない。穀物生産組合がすでに問題として批判していた。
タクシーは、モスクワで公営だ。運転手は月給で雇われ、働く。工場へ出勤するプロレタリアートと同じに。ところが昔ながら赤い車輪の辻馬車は、仲間で相互扶助的な組合をこしらえているが、生産手段を自分でもっている個人営業だ。馬、馬車、両方持っているか、馬は自分ので馬車だけ借りるか。――交通労働者として職業組合には属していない。СССР全経済組織は迅速に社会主義化され、個人営業の手工業者(靴直し屋、裁縫師、理髪など生産手段を自分で持っている職人)までが、集団的生産組合にまとめられつつある。
辻馬車の赤い輪と馬の蹄とは当然昔のような個人的利潤をひらき出さない。その上燕麦は高かった。ソヴェトの農村は五ヵ年計画の集団農場化でいくらでも働く手を呼んでいる。共同牧畜のために。一匹の牛、一頭の馬も招待されている。市へ出て引合わぬ燕麦と税とで馬車をころがすより集団農場員となって生活保証をうけた方がましではないか。
一九三〇年の初夏からモスクワの辻馬車は数でぐっと減り、馬車賃で倍あがった。
モスクワ人は馬車にあふれる程荷物をつみこみ、而も、たとえばステーション前などではスラブ人的忍耐を極度に活用して、賃銀協定をやるのであった。こういう事情がなかったら、裏のいたんだ外套をそのまま着ている小さい日本女が、どうして二ルーブリ、十五分に出す決心をしたろう。
日本女は、写実劇場まで行かずサドー※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]ヤの交叉点を一寸越したところで馬車を止めさせた。彼女は歩道の菩提樹のわきへおり、御者台にあおむいて云った。
――私は約束通り二ルーブリ払うよ。――一ルーブルこまかいのを持ってる?
――三ルーブリより少い金は受けとらない!
――このあたいはよくとも悪いあたいじゃない、私は一コペックだって増す気はないんだ。
――三ルーブリ! 三ルーブリ!
御者は、腰をひねって歩道に立っている日本女に向って黒い髯のある顔を下げ、太い声をひっぱって云った。
――三ルーブリ……わかりましたかね? それをあんたは払わなくちゃならないんだ。初めっから寄り道するって云わなかったじゃないか。
日本女は強情そうな目付で御者をじっと見、はっきり一言一言区切って云った。
――お前さん、ロシア人だろう? 馬車にのっかってる人間が寄ると云ったら、寄り道にきまってることが分らないの?
暫く黙って御者は、やや弱く。
――いや何とも云わなかった。
それから急に大仰に体の両側へ絶望的な手をひろげ、通行人に訴えようとするようにあたりを見廻しながら、
――こりゃ何事だ!
と叫んだ。
――あんたは私の馬車にのって来た、それだのにここまで来ると払わないって云い出す! そんな話ってあるも
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