机の上にこぼれた。日本女は今でも赤い封蝋がどんなにこなごなになって机に落ちたかたをはっきり思い出すことが出来た。
 今夜はこうやって新聞包を足元にのせて馬車を駆っている。新聞包を或る一つの家へおくことで、又一つモスクワと日本女との間にある結び目がゆるめられるのである。
 日本女は腕時計をのぞいた。それから馬車の上でのび上り、賑やかな人通りをこえて右手に続く高い建物の漆喰軒を見まわした。六十八番てのは何処だろう。彼女自身もまだ来たことないところである。
 ――ああそこ、そこ!
 道ばたにセメント樽、曲った古レール、棒材がころがっている。門の内はどうしたのか真暗だ。ここで恐らくは小さい借室第五号への入口を見つけるのは楽でない。日本女は門の方へばっかり気をとられ馬車を降りたら、御者が、
 ――またかね?
と云った。
 ――そんなに待たされちゃ、増して貰わなけりゃやり切れない。
 日本女を振返らず毒々しい調子だ。彼女は瞬間自分の背中で聴いたことを確めるように立ち止まって御者の顔を見ていたが、静かに、きつく云った。
 ――この包を見なさい。用事で馬車へのってるのだ。おしゃべりに歩き廻ってるのじゃない。
 御者台の上で尻を動かしただけで答えない。日本女はさっさと暗い門の中へ入って行った。
 何処でも、馴れないモスクワの門は夜、気味がわるい。広くて、いろんなものが積んであって、人気なくて。その奥に、まるで明るく小ざっぱりと更紗の布をテーブルにかけて女医者マリアが棲んでるので日本女は、びっくりした。室には昔風なペチカ(暖炉)がたかれ、暖かい。丁度茶を飲んでるところで、テーブルに野苺のジャムが出ていた。
 ――一口お茶のんでいらっしゃいよ。明日の晩はもう飲みたくたって私の家の茶なんぞ飲めませんよ。
 ――でもね、マリア・アンドレヴナ。
 日本女は惜しそうに艷々した苺のジャムを見ながら戸口へ歩いた。
 ――とても時間がないの。またこの次ね。
 ――この次?
 ――十年経ったら!
 ――アイヤイヤイ!
 ――どうして? 二度五ヵ年計画をやれば直ぐ十年じゃないの!
 日本女は馬車のところへ戻った。彼女は坐席に体を投げるようにおろしながら、
 ――さあ、これでおしまい!
 御者の背中へ向って云った。
 ――サドー※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]ヤへ行って。
 御者は、手綱をさばき黒
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