の平凡な戸が廊下に向って並んでいる。一つの戸は内部に入れこになっている一つ以上の世帯を意味している。一等はずれの戸が少しあいてそこから蓄音機の音がした。そこを入り日本女は石油コンロか何かのガラス瓶、玉ネギなどののっかった窓枠に向っている戸を叩いた。
 ハンガリアン・ラプソディーの波を背負って、自分でもそんな音楽にびっくりしているようなのぼせた頬のリーダの顔が現れた。
 日本女は、リーダの手を握り、立ったまませわしく話し、二本の瓶を書類入鞄から出した代りにそこへ蜂蜜の小さい入れものを突込んで貰った。
 ――貴女風邪ばかり引いてるから……
 リーダが親切をこめた悪口の調子で云った。
 ――シベリアの中途で鼻がクスクスしたらこれなめて寝床へもぐってなさい! 明日ステーションで会うけれど。
 ――あ、リーダ、あんた五ルーブリこまかくしてくれない?
 一旦出かけたのを戻って日本女がきいた。
 ――私馬車へ二ルーブリ払わなけりゃならないんだけれど、きっと釣銭がないって云うだろうから。
 引こんで、三ルーブリ札を二枚もったリーダが廊下へ現れた。
 ――さ、これ!
 ――どうして? 六ルーブリじゃないの!
 ――かまやしない。三ルーブリの札しかないのよ、今私んところにも。
 ――じゃ、ありがとう。貰っとく。
 リーダは階段のところまでついて来て日本語で「サヨナラ」と云った。
 ばねをゆすって再び馬車にのる日本女を例の横目で見て、
 ――手間どったじゃありませんか。
 御者が重い不平そうな喉声で云った。
 ――どうして? 私は五分位しか家の中にいなかった――
 が、日本女の思想は一つとこに止まっていず、彼女はその不平に対して無頓着そうに云った。
 ――まあいい。次はトゥウェルスカヤ六十八番地。
 数日、日本女はほんのわずかずつ眠った。彼女は毎日いろんなモスクワの街を歩き、そこにある様々な都会の秋の風景を心に刻みつけながら、自分とモスクワとのつなぎをゆるめる仕事をしていた。
 一昨日、モスクワ地方行政部へ行った。黄葉した植込みの奥のもっと黄色い柱列を入って行って、旅券の後に添付されてるSSSL[#「L」に「ママ」の注記]居住許可証を返して来た。桃色の大判用紙(その角には日本女の写真をつけたまま)をはがすとき、掛りの男は紙を旅券につけていた赤い封蝋をこわした。封蝋はポロポロ砕け、樺の事務
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