さぼるような眼付で歩いていた。彼女は今同じ坂道を馬車にのってゆっくり登って行きながら、三年の間に自分が何処ここを歩き、その度にいろんな違った心持を抱いて歩いてたかということを、はっきり感じた。どのソヴェト市民だってそんなに馬車には乗りゃしない。だから日本女だってやはり電車に乗るほど馬車にはのらなかった。今夜は特別だ。だんぜん特別だ。何故なら、彼女にはすることがうんとある。第一この膝の上に抱えている不恰好にふくらんだ書類入鞄の中から二本の瓶を出してストラスナーヤの角の家へおき、次に新聞包を六十八番地へ必ず置き、三十分後には「勇敢な兵卒シュウェイクの冒険」を観るために写実劇場の椅子に間違いなく坐ってなければならないのだ。しかもぎりぎり七時まで、彼女が両腕にものを抱えて歩道へ飛び出した扉の奥、三階の73という室で何をしていたかと云えば、日本女は床へころがした行李の前へ膝をつきながら正体の知れない白い粉にむせてくさめをしていた。慢性的にとり散らされた室の中ではタイプライターの音がせかせか響き、こんな日本語が聞えた。
 ――どうしてぐずぐずしてるのさ繩がかからないの?
 ――切れちゃうのよ、この繩! おまけにこら! 毒じゃないかしらん、この粉――
 ――支那の繩って奇妙なもんだな。じゃ、そっちの錠だけかけといてもう行くといいわ!
 錠をかけたのは四角い大きな樺の木箱だ。それは明日モスクワから日本へ向って送り出されるべきものだ。――日本女そのものがいよいよ明日はモスクワを去ろうとしているのだ。
 左の方にプーシュキン記念像がある。有名なマントをひっかけてたたずんでるプーシュキンの頭は、街燈、電車のポール、並木道《ブリヴァール》の冬木立の梢などの都会的錯綜の間にぼんやり黒く見える。
 ――右かね、左かね?
 御者の声に日本女は、
 ――右! 右!
と返事した。
 ――かど曲ってすぐの門へつけて。
「モスクワ夕刊新聞社」ひろいガラス戸が鈍く反射しながらしまっている隣の狭い入口を日本女は足早に入って行った。もう一つあちら側に戸口があってそこから内庭――建物の全然反対な通りまで出られる石敷のがらんとした玄関。(こういう家の構造は一九一七年までに多くのプロレタリア解放運動の犠牲者の生命を保護した。)階段を登り、右手の扉《ドア》を押して入った。そこは一般の廊下である。いくつも同じような樺色
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