くってかかった。
 ――へ? どうしたらいいんだ! ここにこの間まで警察があったのがなくなっちまってる!
 ――モスクワに警察は一つじゃないだろ。おだやかな口調で日本女が答えた。
 ――巡査は往来にだっているよ。
「見りゃあまだ年もとってないのに、こんな目に人を会わせる、恥だ!」「あんたは不正直だ。こんな客にははじめて出喰した!」
 日本女の返答は一つだ。
 ――私は正しい価を云ったんだし、正しい約束して乗ったんだから負けない。私はお前のソヴェト権力と一緒に正しいところはどこまでも突っ張るよ。
 プーシュキン記念像の下まで戻って来てしまった(サドー※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]ヤとストラスナーヤはつまりそんなに近いのだ)。御者は往来のくぼみ、今は一台もいないタクシー溜りへ馬車を引込み、その辺を見廻してたがやがてのろくさ御者台を降り、広場の方へ去った。若い交通巡査を先に立て、馬車のところへ戻って来た。
 日本女は馬車からこごんで巡査に事情を説明した。御者はわきへ巡査の方へ背中を向けて立っている。もうまわりは人だかりだ。若い交通巡査は、黒い外套の胸をふくらませてしめた皮帯の前へ差した赤い指揮棒の頭をひねくりながらきき終ると、手を帽子へやりロシア風にそれを頭のうしろへずらした。
 ――……警察で話して下さい。
 御者に向い、
 ――警察へ行け。僕はここでいそがしいんだ。
 広場の交叉点へ戻って行ってしまった。
 ――何だい。
 ――言葉がわかんないんじゃないの?
 群集がしゃべり出した。
 ――どうしたんだ? 彼女は何が必要なんだ?
 日本女は、馬車へのっかったまま平らかな視線で自分のまわりへよって来た群集を眺めた。彼女は群集を知っている。パンの列に立ってる間に、電車でもみくしゃにされた間に日本女がその気ごころをいつか理解したモスクワの群集だ。
 ――どうしてこんなところにかたまってるんだ?
 御者は、馬車から下りて馬のわきへ立ったまんま低い声で答えている。
 ――外国女が金を払わないんだ。
 ――ロシア語が判んないのか?
 ――わかりますよ。
 日本女が答えた。
 御者は何も云わない。――
 茶色の革帽子をかぶって共産青年同盟員らしい若者が人だかりの輪のうしろから体をはすかいにして出て来た。馬車の上の外国女を一寸眺め、巻煙草の吸殼をすててそれを足でもみ消しな
前へ 次へ
全10ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング