んじゃないじゃないか。
 日本女の黒い眼が、焔の下の石炭のようにきらきらしだした。馬車へ再び足をかけながら短く、彼女は命令した。
 ――さ、巡査のところへ行こう。
 御者は同じ様に挑戦的に応じた。
 ――行こう!
 御者がさとらぬようにそっと口をあけて、日本女は何とも云えないおかしさでひとり笑った。だって、一体これを何と解釈すべきだろう。日本女をのっけた馬車は、今七時二十分、人の出盛っているトゥウェルスカヤ通りを逆にもときた方へ向って動いている。車道の真中には恐ろしい火山でも出来たようにぴったり歩道際へすりついて、四本の馬の脚でのろく歩けるだけのろく練っている。そんなにのろくさ歩くのは不自然でおまけに退屈だ。馬はひょいと普足《なみあし》になる。すると御者はあわてて手綱を引きしめ、のろのろのろのろ歩かせる。
 むこうから来てすれ違う一人一人の通行人の顔が大写しになってかぶさって来るように感じる位ののろさなのだ。――御者奴!
 それは、御者も商売からまるで間違った推測をしたのではなかった。この外国女は、第一ひどく急いでいるんだ、芝居へ行こうとしているんだと。サドー※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]ヤにはメイエルホリド座がある。写実劇場がある。オペレット劇場がある。実際日本女は写実劇場でもう坐っているべき時刻なのだ。だが、御者はそろそろ自分の予想に自信を失いかけている。日本女は、芝居におくれないために、余分な一ルーブルは出そうとしなかった。その上(本当に?)警察へ行く気でいる。――では、芝居へ行くだろうと思ったのは間違いだったか?
 御者は黙って、ひたすら馬をのろく御すことに努めている。自分の根気と小さい外国女の根気とを計っている。彼はもう罵るだけ罵ったのだ、と云うのは、サドー※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]ヤの交叉点からこの通りを真直来たのではない。もうすでに寄り道して来たのだ。やはりこののろさで。
 大通りを左に曲り、暗いごろた石道を数丁行って御者は外側を青く塗った一軒の家の前へ馬車を止めた。彼は、しきりに外側から家を眺めたのち御者台の上でうなった。
 ――畜生! どこへか引越しちまった。
 往来に向いた低い明るい窓の内で、ルバーシカを着た若者が数人で談笑しているのが見える。外までその声はもれず、燈火だけ人通りのない道へさしている。
 御者は日本女に
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