がら、
――行けよ、警察へ行った方がいいや。
御者に云った。
――このトゥウェルスカヤ通りにあるよ。
――あすこにないんだ、もう。行ったんだが。
――あの先だ。
うしろの方から誰かがのび上ってるような声で叫んだ。
――百十番地だよ、トゥウェルスカヤの。
御者は、みんなの言葉にかきあげられるような恰好で再び御者台へのぼった。蹄の音を乱しながら馬をまわした。再び「イズヴェスチア」新聞社の高い時計台。映画館「アルス」から降るイルミネーションで、外套の肩と胸とを赤く照らされながら、歩いている通行人。
決して歩調をはやめずまたサドー※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]ヤを横切ると、その街燈柱と菩提樹のところ、きっちりさっき日本女が一度馬車から下りた地点で車を止めた。あっち向のまま、
――家へ帰んなさい。
日本女はすぐに御者の云うことを理解しなかった。
――家へかえんなさい、もう先へは行かないよ。
気落ちしたように、だがどこまでも頑固に侮蔑を失うまいとして強く御者は云った。
――金なんぞいらない、あんた欲しいんだろう、もってきな。
日本女は蜜の入れもので膨らんでる書類入れ鞄をかかえたまま馬車を下りると小戻りして、変電塔の横へ袋をもって出ているリンゴ売のところへ行った。
――いくら? それ一つ。
ところどころ当ったひどいリンゴだ。
――十五カペイキ。
――じゃ二つ。
絶え間ない通行人だ。
乗合自動車を待つ一かたまりの群集のかなたから、今は体ごとこっちへ向きなおり、熱心に小さい日本女が金をくずしているのを待っている辻馬車御者の眼と黒い髯とが見えた。[#地付き]〔一九三一年一月〕
底本:「宮本百合子全集 第九巻」新日本出版社
1980(昭和55)年9月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本「宮本百合子全集 第六巻」河出書房
1952(昭和27)年12月発行
初出:「読売新聞」
1931(昭和6)年1月1日、4日、6〜9日号
※「――」で始まる会話部分は、底本では、折り返し以降も1字下げになっています。
入力:柴田卓治
校正:米田進
2002年10月28日作成
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