この下宿人の暮しぶりに非常な好奇心を動かされた。彼は物置きの屋根の上に這い上って、中庭ごしにその下宿人の窓の中の生活を観察するのであった。そこにはアルコール・ランプがあった。いろいろの色の液体の入った罎、銅や鉄の屑、鉛の棒などがあった。これらのゴタゴタの間で「結構さん」は、朝から晩まで鉛を溶かしたり、小さい天秤で何かをはかったり、指の先へ火傷をしてうんうんとうなったり、すり切れた手帳を出して、何かしきりに書き込んだりする。
 ゴーリキイは、興味を押えられず、お祖母さんに聞いた。
「あの人は何してるの?」
 するとお祖母さんはこわい声で、
「お前の知ったこっちゃない、だまっていな」
と言い、おばあさんが警戒するばかりでなく、家中の者が揃ってこの毛色の変った下宿人を愛さなかった。みんな「結構さん」をかげでは嗤《わら》って、贋金つくりだの、魔法師だの、背信者だのと噂している。荷馬車屋、韃靼人の従卒、軍人とジャム壺をもって歩いてふるまいながらおしゃべりをすることのすきな陽気なその細君などという下宿人の顔ぶれの中で、この「結構さん」は何という変な目立つ存在であったことか。
 ゴーリキイはだんだんこの「結構さん」と仲よくなった。ある晩、有名な物語上手である祖母の話を聞いているうちに、この「結構さん」は激しく涙を落しはじめ、興奮して長くしゃべったあげく、いきなり恥かしそうに、そっと部屋を出て行った。人々はきまり悪るげに見交しながら苦笑した。荷馬車屋が、「旦那方はみんなあんな風じゃ。」不機嫌に、毒々しく云い放った。翌日その「結構さん」が祖母の傍へぴったりよって、驚くほどの単純さで「僕は恐ろしいほど一人ぼっちです」と云っているのをゴーリキイは聞いた。その言葉がゴーリキイの幼い心につきささった。家中で、幼いゴーリキイのいうことに耳を傾けてくれるのはこの「結構さん」ばかりであった。祖父はゴーリキイを怒鳴りつけた。
「無駄口しゃべるな。悪魔の水車め!」
 だが「結構さん」は、ゴーリキイの話を注意深く聞いてくれるばかりでなく、微笑しながら、しばしば彼に云った。「ふむ、そりゃ兄弟、そうじゃないよ、そりゃお前が自分で思いついたのさ。」或は、二つの優しい打撃で「嘘つけ兄弟!」そして、ゴーリキイの話の中に織り交る、すべての余計な不信実なものを切り去るのであった。又この「結構さん」は、極くありふれた云
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