るばっかりと来ていらあ」
 スムールイの云う言葉は、ゴーリキイの感受性の鋭い心の中に落ちて、反響をおこし、その現実観察力と発育の肥料となった。
 月が皎々とヴォルガとその岸の草原の上を照らしている深夜、皿洗いゴーリキイは船尾に坐りこんで、「涙が出そうになるまで夜の美観にうたれた。」汽船の後から長い綱にひかれて艀舟《はしけぶね》がついて来てる。それは赤く塗ってあり、甲板に鉄格子が出来ている。追放や苦役に決った囚人がそこに入れられて輸送されているのであった。舳先に歩哨の銃剣が燭火のように光っている。艀舟の中は静寂で月の光が豊かに濯《そそ》いでいる。ゴーリキイは、昼間の疲れと景色の美しさに恍惚としつつ思うのであった。「善良な人間になりたい。沢山の人々にとって大切な人間になりたい――。」『タラス・ブーリバ』を読み、『アイ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ンホー』をよみ『捨児トム・ジョーンズの物語』を読み、知らず知らずの間に読み馴れて、ゴーリキイには今や本を読むことが何よりの楽しみになって来た、「本に物語られてあることは気持よい程生活とかけ離れていた。」ところで毎日の実際の生活といえば、それ
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