られた。彼は、低い平凡なホテルの客間用肘掛椅子にかけている。大きいさっぱりと温い手を自分の前で自然に組み合せている。斜向いのところに丸テーブルがあって、その上にはもうさめ切った一片のトーストが皿にのったまま忘られたように置かれている。
 私は細い赤縞の服を着てそのテーブルに向い、わきに立って私の上にかがみかかっている友達に、時々綴りを訊きながら、本の扉にロシア語を下手な字で書きつけている。私はゴーリキイに自分の小説を一冊贈るために持って行った。その扉に「予想されなかった遭遇の記念のために。マクシム・ゴーリキイへ」と日本字で書いてそれをゴーリキイに見せたら、彼は、日本字が読めなくて残念だと云い、その意味をロシア語で書いてくれと云った。私はそれを書いているのであった。書きあげて、子供より下手だと笑いながら見せた。するとゴーリキイは真面目な、親密な調子で「なに、結構よめる」と、別に笑いもせず答えた。その云い方と声とが今も心に残っている。
 ゴーリキイがもういず、彼によって残された沢山の蔵書の中に交って何処かに、私のあの本もあるのかと思うと、何か一口に云い現せない心持が私をみたす。何故なら私の
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