その客観的価値を判断し得ないナロードニキの憤怒。十九世紀におけるロシア、世界の歴史の渦はカザンの町はずれの一軒家の中に激しく渦巻いているのであったが、ゴーリキイは、当時の自分の関係を極めて自然発生的に率直にこう書いている。「私は論争を好まない。私はそれをきくことが出来ない。私は昂奮した思想の気まぐれな飛躍を追うことが困難である。そしていつも論争者の自愛心が私を焦立たせる。」
 ここでまことに面白いことは、この夜プレハーノフの論文を朗読し、漫罵の代りに本質的な反駁をやることは出来ないかと特に注意した一人の青年フェドセーエフが、喧々囂々の中で苦しそうにしているゴーリキイに目をとめた。彼は云った。
「君は――パン屋のペシコフですか?――僕はフェドセーエフだ。我々は知り合いにならなければならなかったのです。実を云うと――こんなところでは何もすることはない、この騒ぎは――長くて、利益は少いだろう。行きませんか?」

 デレンコフ・パン屋の仕事は、益々酷いものとなると同時に、悪いことには段々仕事の意味が失われて来た。ナロードニキの連中は、パン店の仕事の工合をも考えず、麦粉の代さえのこさず、不規律に会計から金を引出して行った。デレンコフは、明るい髯をむしりながら、痛ましくも薄笑いした。
「破産しちまうよ」
 デレンコフの生活も亦苦しかった。彼は時々訴えた。
「みんな不真面目だ、何もかも持って行っちまう。お話にならない。靴下を半ダース買って置いたら、すぐ失くなってしまった」
 この温和な、無慾な男が有益な仕事をうまくさせようとして努力しているのに、周囲の誰も彼もがその仕事に対して軽率な冷淡な態度をとってそれを破壊させつつある有様はゴーリキイの心を痛めた。デレンコフの父親は宗教上のことから半狂人になった。弟は放蕩をはじめ、マリアのところには何か芳しくないロマンスがある。そのマリアに、ゴーリキイは自分が恋しているように思われた。ゴーリキイの二十歳という年齢、たっぷりした強い感覚的な性格、生活の錯雑が、女の愛撫を要求した。女の親切な注意がほしかった。それによって自身の連絡のない思想の混乱を、印象の渾沌を捌いてゆきたかった。
 だが、愛することの出来る女も、友達もゴーリキイは持たなかった。「加工を必要とする素材」としてゴーリキイを眺めている人々は、ゴーリキイの同感を呼び起す力を失った。彼等が当面興味をもっていないことについてゴーリキイが話しはじめると、彼等は遮った。
「そんなことはやめてしまえ」
 だが、ゴーリキイにとって話したい、打ちあけたい生活の苦痛、錯綜した印象の回旋そのものはやまら[#「やまら」に傍点]ない。減りもしない。当時は又夥しくトルストイアンが現れ「眼には憎悪と軽侮とを現わしながら『真理――それは愛です』と叫び」ながら客観的にはポヴェドノスツェフの反動政策の支柱を与えつつ、消極的な八十年代の人々の間を横行した時代であった。彼等はゴーリキイに向って説教した。
「人間が低いところにいればいるだけ、それだけ生活の本当の真実に、その聖なる叡智に近い……」
 実際生活における彼等の虚偽と偽善を目撃することが、ゴーリキイの心に憎みを煮え立たせた。人間の生活において愛と慈悲との役割はどういうものであろうか。ゴーリキイにはこの生活は余すところなく愚かで、殺人的に退屈なように見えた。人々は言葉の上でだけ慈悲深く親切だが、実際の上では我知らず一般的な生活の秩序に屈服しているように思える。自分が尊敬し信じていたナロードニキの人達の暮しも例外でないという感想は、ゴーリキイを一層暗くするのであった。インテリゲンツィアの中にはもっと質のわるい毒気をふきかける人々もいた。彼等は飲んだくれながら、嗄れ声で云った。
「君は何だ? パン焼き――労働者、不思議だ。そうは見えない。俺はパリで、人類の不幸の歴史、進歩の歴史を勉強した。そうだ、書きもした。――おお、こんなことがみんなと何と……」
 彼は、ゴーリキイに、アンデルセンの有名な「見っともない雄鴨」の話を知っているかと訊いた。
「この話は――誘惑する。君ぐらいの年には僕も、自分は白鳥じゃないか? と考えたもんだ。進歩――それは気休めだよ。人間が求めているのは忘却、慰安であって、知識ではない」
 この時分、ゴーリキイは彼を「俺のレクセイ・マクシモヴィッチ、俺の可愛い錐、新しい人間!」と呼んで親密にするモローゾフ紡績工場の老職工ルブツォフを知っていた。クレストッフニコフの労働者で指物師のシャポーシニコフとも知り合っていた。「ドイツ人」という綽名のあるルブツォフは、辱められた晴やかさに満ちて、ゴーリキイに思い深げに叫ぶのであった。
「俺の可愛い錐。お前の考えはよ、正しい考えだ。だが、だあれもお前の云うこたあ、信じやしねえ。損
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