だ……」「俺達んところで、モローゾフの工場でよ――こんなことがあった。前の方へ行く奴は額を殴られる、ところが額は尻じゃあねえ、傷は永えこと残らあな。唯――主人に対する俺の権利をよこせ」
 シャポーシニコフは、腐った肺の血を四方に吐き散らしながら、目の眩むような神の否定を叫んだ。
「ええ、俺は殆ど二十年も信心して来た。耐《こら》えて来たんだ。縛られて生きて来た。バイブルに噛りついて来た。そして、気がついて見ると――拵《こさ》え事だ! 拵えごとだよ」
 そして、手を振廻し泣かんばかりに叫んだ。
「見ろ――そのために俺は実際より早く死ぬんだ!」
 おお、何んと汚い、悲しい、そして不思議に斑《まだら》な人々を見せられているのだろう。ゴーリキイはそれに疲れた自分を感じた。「すべての人間の中に、言葉や行為のみならず感情の矛盾が、角ばって具合わるく同棲している。」その気まぐれな跳梁が自分自身の裡にも感じられる。これがゴーリキイを苦しめ、圧した。「初めて魂の疲労と、心臓の中の毒々しい黴を感じた。」ロシアの民衆にとって、行くべき道がまだはっきりと示されなかった時代の悲傷が遂に強健なゴーリキイをも害した。彼は書いている。「その時から私は自分をより悪く感じ、自分を何か脇の方から、冷たく、他人のような敵意をもった眼で眺めるようになった」と。
 では純粋な工場労働者の生活というものは、この時代に果してどんなであったのだろう。一八八五年に行われたモロゾフ工場のストライキの結果、幼少年者の搾取の制限、婦人の夜業禁止、二週間目毎に賃銀を支払うこと、罰金はこれまでのように二十五パーセントとらず賃銀の五パーセントに止めるというような工場法めいた[#「工場法めいた」に傍点]ものがきめられたが、工場監督は工場内の「秩序を保つ」に役に立つ警部であった。マクシム・ゴーリキイがカザンへ出て来た時分、十三ばかりであったシャポワロフは、ペトログラードの鉄道工場で朝七時から夜の十時半まで働いていた。給料は一日三十|哥《カペイキ》であった。工場の大人共はシャポワロフに「仕事を教えるかわりに、朝から晩までウォツカを買いに走らせた。」皆で出しあって銭が出来ると、怒鳴った。「サーシュカ、半壜買って来い!」何か機会がある毎に皆が酔っぱらった。特に、当時は「どの工場にもある聖者の像の前で礼拝のある日はひどかった。こんな日は礼拝がすむとみんなは気を失うまで酔っぱらう」のであった。
 一八七〇年代の高揚は去り、工場の中で「同志」とか「同僚」とか云う言葉はこの時代には個人的な意味しかもたなかった。密告は工場内では普通のことになっていた。職場で使う道具さえ、目をはなせば盗まれた。ポヴェドノスツェフの影は工場の内へも圧倒的に差し込んで来た。ナロードニキ達をシベリアへ、要塞監獄へどしどし送る一方で、坊主が工場の中へ入りこみ、「凡て疲れたる者、重荷を負へるもの、我に来れ。我汝を憩はせん」と叫びながら「禁酒会」を組織しているのであった。一八九〇年代に入ってロシアに正当な労働運動が成長した時、「インテリゲンツィア十人に対する一人」の労働者として卓抜な活動をしたシャポワロフは、その価値高い自伝の中で、飾りなく、しかも忘れ難い憤りによって歯の間から云っている。「毎日毎日、私は烈しい労働をした。そして私の頭の働きは鈍って行った。」「禁酒会が私を誘惑した。労働者の孤立はそんなにもひどかった。その頃の工場には政党も、協同組合も相互扶助金庫もなければ、どんなアジテーションもプロパガンダも行われなかった。」十六歳だったシャポワロフは、原始キリスト教の理想を実現して、貧富の相異が消せるかと思ったのであった。
 ゴーリキイがカザンで、デレンコフの店の裏の小部屋に坐ってナロードニキの討論に耳を傾けている、その時、シャポワロフは遠くペテルブルグにあって仲間の労働者に聖書の説明をしてやりながら、その中から次第に自然科学へ関心をひかれて行きつつあった。最も熟練工の多いワルシャワ鉄道大工場の金属工のなお沢山の者が、地球は円いのか、扁平なのか、動かないのか、それとも太陽の周囲を廻転するのか等とシャポワロフに質問した。バイブルはこれらのことを正確に説明するには何の役にも立たない。その上工業恐慌の影響で、どの工場でも労働者の賃銀が下がる一方であった。賃銀切下げは親方の勝手な才量で行われた。キリスト教とトルストイとは悪に報ゆるに悪をもってするなと云う。禁酒会員であるシャポワロフは、この教義と一日一ルーブルの稼ぎで、母、妹、二人の弟を養わねばならない現実生活が彼の全身に囁き込む生きた抗議との間に生じる矛盾で苦しんだ。
 ゴーリキイは、恐ろしい乱読と廻り路を通してではあったが、ともかくこの時代には世界の代表的古典文学の或る物を読み、チェルヌイシェ
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