フスキイを読み、それを理解すべきように理解出来なかったとは云え、プレハーノフの論文朗読をも聴く機会を持っていた。毎朝、かの歴史的なプチロフ工場のサイレンで目を醒すシャポワロフが、辛うじていくらかでも自由主義的な同時代の著作物に近づくことが出来たのは、何という愉快な皮肉であろう! 労働者が公然読むことを許されている『グラジュダニン』や『ルッチ』のような極反動的な新聞が、繰返し、痛烈にそれ等の著作をこき下していることから、彼の好奇心が刺戟されたのであった。
シャポワロフは様々の苦しい、いきさつの後、「きっぱりとこれまでの生活方法を変えた。教会へ通うことも、祈ることも、聖像の前で帽子をとることもやめた。」文筆の仕事の中で感情を誇張する悪癖を持たぬ素朴さで、シャポワロフは当時の決心を表現している。
「神が存在しないとなれば、今度は社会主義者をさがし出さなければならない」――。
一八八三年頃、スウィスでプレハーノフを中心として小さいながら「労働解放団」が組織されていた。その二年位後にはペテルブルグの「労働者」というグループが、解放団との関係をもっていたが、勿論、そのことはワルシャワ鉄道工場の一青年労働者であったシャポワロフには知られなかった。彼のまわりには、夜学校の中にも、彼の求めているそれらしい人の片影すら見出せなかったのであった。
ところで、ゴーリキイが、カザンの町端れの空屋の中でプレハーノフの論文朗読を聴いた時、それに対するナロードニキの爆発的反撥の声の中に最もつよく叫ばれた「ウリヤーノフの処刑」は、引続いて行われためちゃめちゃな学生狩のため、アレキサンドル三世の政府が、初めてぶつかったインテリゲンツィアの全国的反抗を喚起する結果になった。大学生騒動はモスクワから始って、各都市に波及した。
カザンで、ゴーリキイのまわりは空虚になった。カザン大学でも騒動がはじまった。(十八歳のウラジミル・イリイッチ・ウリヤーノフ(レーニン)がカザン大学の学生の指導者であった。)だが、その意味はゴーリキイにとって不明であった。動機は、漠然としたもののように感じられた。沸き立つ学生の群を眺めると、ゴーリキイには自分がもし「大学で勉強する幸福」を得られたらそのためには「拷問さえも辞しはしない」のにと、考えられるのであった。
元働いていたセミョーノフのパン焼場へ行って見ると、パン焼職人たちは、学生を打ちに大学へ押しかけようとしているところであった。
「おお、分銅でやっつけるんだ!」
彼等は嬉しそうな悪意で云った。たまらなくなって、ゴーリキイは彼等と論判をはじめた。が、結局自分に学生を護り得るどんな力があるというのであろうか。ゴーリキイの全心を哀傷がかんだ。自分がどこへ行っても、誰にとっても必要のない存在であるという考えが、病的に彼を捕虜にした。夜、カバン河の岸に坐り、暗い水の中へ石を投げながら、三つの言葉で、それを無限に繰返しながら彼は思い沈んだ。
「俺は、どうしたら、いいんだ?」
哀傷からゴーリキイはヴァイオリンの稽古を思い立った。劇場のオーケストラの下っぱヴァイオリンを弾いていたその先生は、パン店の帳場から金を盗み出してポケットへ入れようとしているところを、ゴーリキイに発見された。彼は唇をふるわし、色のない目から油のように大きい涙をこぼしながら、ゴーリキイに訴えた。
「さあ、俺を打ってくれ」
二六時中彼を不愉快にいら立たせるところのすべてに反抗したい希望が、静かに執拗につきまとった。空虚への反感が喉をつまらせるのであった。
この堪え難かった年の十二月の或る晩、ゴーリキイは雪の積ったヴォルガ河の崖によりかかりピストルを自分の胸にあてて、発射した。弾丸が肋骨に当ってそれた。彼は生きた。
我々読者に今日無限の示唆を与えるのは、ゴーリキイほどの強靭な天質と生活力とを持つ者でさえも、歴史の或る時期には自殺をしようとしたという一事実を踰えて、更に、人及び芸術家としてのゴーリキイが、自分のこの記念的経験をちゃんと短いながら一つの作品「マカールの生涯の一事件」になし得たのは、二十五年の後、『プラウダ』に参加するようになった一九一二年のことであるという事実である。「マカールの生涯の一事件」の結末に於て、ゴーリキイは「病んだ心臓の奥底から」「春の最初の花のような」人生への希望が甦って来たこと、決して「どっちにしろ同じ[#「どっちにしろ同じ」に傍点]」じゃない[#「じゃない」に傍点]ということを、全身に感じたこと、最後に、パン焼職人の荒々しい手を確り握って笑いながら、涕泣しながら、このマカールと仮の名をつけられた逞しい、だが小路へ迷い込んだ民衆の一人が「長い剛情な人生の上に本復したことを感じた」美しい瞬間を、脈うつ歓喜の調子で描いているのである。
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