中にいそいで突こむ。――
夕方の六時から真夜中まで働かなければならなかった。僅の暇をぬすんで本を読む。
「お前は本なんか読まないで、寝る方がいいんだ!」
ルトーニンの忠告は全然当はずれではなかった。力の過剰のために、無細工な若者ゴーリキイが疲労で鈍くなるまでの労働であった。
この時期に、ゴーリキイの心持にとって代えるもののなかった祖母が死んだ。葬式がすんで七週間後に従兄から手紙が来て、それを知らせた。句読点のない短い手紙の中には、祖母さんが教会の入口で施物を集めて倒れながら足を折った、と書いてあった。丹毒にとりつかれた、と書いてあった。もっと後になって、ゴーリキイの知った祖母の生涯の終の有様は彼を震撼した。二人の従兄弟と子もちのその妹――健康な若い者ども――が祖母の首にかかり、彼女の集めた施物によって食っていたのであった。八つの時ゴーリキイが、五|哥《カペイキ》、十|哥《カペイキ》を稼いでやった、その祖母さんに。
ゴーリキイは「私の大学」の中に短く圧縮した表現で書いている。「私は――泣かなかった。唯――思い出す――まるで氷の風で私は捉えられたようだった」と。祖母がどんなに心から賢く、「すべての人々にとっての母であったかということについて」ゴーリキイは誰かに語りたいという切ない願望を感じたが、その対手は当時のゴーリキイの周囲にいなかった。「私は幾年か過ぎて、自分の息子の死について馬と話す馭者についてのチェーホフの驚く程真実な短篇を読んだ時に、これらの日を思い出した。そして、鋭い哀愁の、これらの日に私のまわりには馬もなく、犬もなかったこと、そして鼠と悲しみを分つことを考えつかなかったことを惜んだ――それはパン焼場に沢山いて、私は彼等と良い親しい関係にあったのだが。――」
ゴーリキイのまわりには巡査のニキフォールウィッチが鳶のように廻りはじめた。カザンの町では「手から手へと何か感動的な本が渡ってゆき、人々はそれを読んで――論じ合った。」
或る夜、或る空屋へ人々が集った。口笛を吹き、歌を唱い、ほろ酔い職人のふりをしたゴーリキイも加った。朗読されたものは、以前の「|民衆の意志《ナロードノ・ヴォーレツ》団員」ゲオルギー・プレハーノフの「我等の意見の対立」というものである。そうパン焼のゴーリキイはきかされた。朗読がすすむにつれ暗闇の中で、
「愚論!」
と吼える者がある。「本読みは退屈な程長くつづく。」ゴーリキイは聴き草臥《くたび》れる。それにもかかわらず、彼にはその挑戦的な鋭い言葉が気に入った。それらの云われていることは「容易に簡単に、説得的な思想に編みこまれて行く。」ところが、突然読みて[#「読みて」に傍点]の声が遮られ、暗い朦朧たる部屋の中は憤怒の声に満たされた。
「裏切者!」
「ガアガア云う銅羅!」
「それは――英雄達によって流された血に痰を吐くようなもんだ」
「ゲネラーロフ、ウリヤーノフの処刑の後に……」
「諸君! 漫罵の代りに、真面目な、本質的な反駁をやる訳にはゆかんのか?」
その一夜から五十年近く経った今日顧れば、ゴーリキイの参加したこの空屋での会合、読まれたプレハーノフの論文「我等の意見の対立」こそ、ロシアの民衆の歴史にとって画期的な内容をもつ重大なものであったことが理解される。当時三十歳前後であったプレハーノフは、一八八五年、外国で出版されたこの論文によって民衆派《ナロードニキ》の各分派が従来その根本的土台としていたところのロシアの現実には資本主義がない、発展しないという誤った観念を徹底的に覆した。ナロードニキのその考え方は余り執拗にそれを繰返されたので、マルクスさえ或る時期に非常にその判断に迷ったという程強力、支配的なものであった。プレハーノフは、当時手に入る限りの統計、材料を集め、科学的マルクシスムの立場からそれを調べ、資本主義はロシアにおいて支配者となりつつあることを明かに示した。農村の旧土地制はそれによって崩壊しつつあること、ロシアの未来は工場の労働者に基礎を置かれなければならぬということ、労働者党が必要でありそれが過去において陥ったインテリゲンツィアの矛盾をも解決するであろうこと等をプレハーノフはその論文の中で語っているのであった。これは、従来の「仕事をする人々」が誰も踏んだことのない土台であった。しかも、一九一七年の十月まで進んで行ったその道に立ったものなのであった。
「私の大学」の中で、この歴史的瞬間は何と素朴に、しかも何と興味ふかく描かれていることであろうか。レーニンの兄、ウリヤーノフが一八八七年にアレキサンダー三世に対する企計に失敗し、処刑された。その失敗によって与えられたテロリズムの非科学性についての深刻な教訓、プレハーノフ、つづいてレーニンによって発展せられようとしている新たな運動の方向。
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