ている健康な人間性、大きい才能の強力な発芽として歴史の上に登場した若いゴーリキイが、計らずも当時の情勢に制約され、苦しんだ内的過程の有様は今日の私達をも様々の示唆によってうつものがある。もし、無智と従属とを意味する名辞として解釈するその時代の習俗に従えば、ゴーリキイは既に盲目な民衆《ナロード》の一員ではなくなっている。さりとて、当時の|民衆派たち《ナロードニキ》が、自身を解放の指導者、口火として、外部から民衆に接触して行った、そういう資格において彼を評価しようとすれば、ゴーリキイはそのようなインテリゲンツィアとして、うけいれられない。又、その必要もなかったと思われたであろう。何故なら、彼等ナロードニキの伝統的見解に従えば、ゴーリキイは波止場から来たから、民衆の中からの生粋の子[#「民衆の中からの生粋の子」に傍点]として存在しているところに自然発生的な価うちがあるのであったから。ゴーリキイが、民衆の中から出ているからこそ民衆に加えられる抑圧とその暗さとに対し不撓な闘志を抱き、その故にこそ彼の若い生命は高価である所以を、当時の民衆派達《ナロードニキ》は理解し得なかったのである。彼等は、自分たちが訪問することさえ思いつかなかったセミョーノフの不潔きわまる地下室「日がな一日沸ぎっている湯が眠そうに、気懶るそうにピストンを動かし」「濃い、臭い、いきれ立つ湯気の中で」日頃彼等の夢想しつつある民衆の新たな一典型が成長しつつあるという現実の豊富な営みを知ることが出来なかった。もとより、ゴーリキイ自身は知りようもない。
 ゴーリキイの地下室仲間は一般に、当時急進的インテリゲンツィアのもっている革命的な値うちを素直にうけ入れられない程生活に圧しひしがれていた。パン職人たちの唯一の歓びは、給金日に淫売窟へ出かけることであった。すると、そこの「喜びのための娘たち」は酔っぱらいながら彼等に、学生や官吏や「一般に小綺麗な連中に」対する悪意のある哀訴をした。それをきくと「教育のある人達[#「教育のある人達」に傍点]に対する片輪の伝説」で毒されているパン焼仲間は不可解なものへの嘲笑と敵対心を刺戟され、毒々しい喜びで目を閃かせながら叫ぶのであった。
「ウー、……教育のある連中は俺達よりわるいんだ!」
 後年書かれた短篇小説「二十六人と一人」(一八九九)「赤いワシカ」(一九〇〇)等にはこのセミョーノフのパン焼職人の生活の印象づよい具体的な描写、插話が芸術化されている。
 パン焼職人達は「最初の日から、彼をおかしな道化者、又は面白い話をするひとに対して子供が示すような素朴な愛でもって」若い、力持ちの新しい仲間を見た。ゴーリキイは、彼等の気に入る物語の間に、「もっと楽な、意義のある生活の可能に対する希望をふき込もう」とした。しかし、時に、彼等は猛烈に悪意をもってゴーリキイに反駁した。
「だが、娘達が奴等について云うことたあ、まるっきり違うぞ!」
 彼等の性わるな嘲弄の中には、ゴーリキイがまだ女の愛撫を経験したことがないことが、最も容赦ない材料としてとりあげられるのであった。

 崖上の小さい、だがその存在の意味は大きいデレンコフの店では、やがてパン屋を開くことを考え出した。この事業はアンドレイ・デレンコフによって精密に計画され、一|留《ルーブル》ごとに三分五厘の利益を得るように企図された。ゴーリキイはセミョーノフの大きい汚い地下室から、いくらかましな小さいデレンコフの地下室へ移って来た。「四十人の職人仲間の代りに、一人のパン焼職人ルトーニンの『助手』兼仲間のものとして」パン焼が麦粉、卵、バタ、出来上ったパンなどを盗まないように注意するのが今やゴーリキイの仕事となった。
 パン焼職人は、勿論、盗んだ。仕事の最初の夜に卵を十箇、三斤ばかりの麦粉とかなり大きいバタの塊とを別にして置いた。
「これは――何にするんだね?」
「これはある娘っ子につかうんだよ」親しげにそう言い、ルトーニンは鼻柱を顰めてつけ加えた。「とてもいい娘っ子だ!」
 この男は、どれだけでも、どんな恰好ででもシャベルによりかかってでも眠ることが出来た。そして、眠りながら彼は眉を挙げ、彼の顔は不思議に変って、皮肉に驚いた表情をした。地べたの底に埋められている宝物の話、夢の話、それがこのパン焼の話題である。パン店の方では仕事に不馴れなデレンコフの妹マリアとその友達の、バラ色の頬をした娘とが商売している。
 ゴーリキイは、朝早く、焼きあげたパンをデレンコフの店へ運び、更にいろんなパンの詰った二プードの籠をもって神学校へ走って行った。時によると、その白パン籠の下に帳面が入っていることがある。それを、ゴーリキイは或る学生の手へうまく押し込んでやらなければならぬ。時には、行った先で、学生達が本や紙片を、ゴーリキイの籠の
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