で本当の主人はアンドレイではなかった。カザン大学や宗教学校、獣医学校などの学生達及び「未来のロシアについての絶間ない不安の中に生活していた人々の騒がしい集り」であった。この集りの中に「神学校の学生でパンテレイモン・サトウという日本人さえいた」というのは、何と興味ある歴史の一頁であろう!
 ゴーリキイに、彼等の論争はよく分らなかった。真理らしいものは言葉の氾濫に溺れて消えた。しかし、生活を良い方へ向けようとしている人々を見、自分もその中に伍しているのだという自覚、何にもまして、彼等が解決しようとしているのが何であるかということは、ゴーリキイにとって明瞭に理解されている。ここで論じられていることが成功的に解決されることにゴーリキイ自身の個人的な問題の解決もふくまれていること、それをまざまざと感じているのであった。
 ゴーリキイが、人間生活を観る持ち前の鋭い目で、学生達とデレンコフとの関係を省察している叙述は様々の時代的な示唆や、ゴーリキイの誇高い、不屈な気質の一面を示して興味がある。ナロードニキに対するデレンコフの態度はゴーリキイのそれと同じであったが、「デレンコフに対する学生の態度は」ゴーリキイには「主人が下男に対し、酒場の給仕に対するような粗暴さのある無関心なもののように思われた。が、彼自身はそれに気がついていなかった。」客達を送り出しておいてから彼はよくゴーリキイを泊らせた。ゴーリキイとデレンコフとは「部屋を掃除し、それから床《ゆか》の絨毯の上に横わりながら、わずかに燈明の光りだけに照らされた暗の中で長いこと親しく囁き声で話し合った。」デレンコフは信頼のこもった静かな喜びをもって、ゴーリキイに語るのであった。
「こういう人達が幾百、幾千と殖え、ロシアで重要な地位を占め、直きに生活の全部を変えてしまうだろう」
 デレンコフはゴーリキイより十歳年上で、独身であった。店の収入は僅かだのに、物質的援助をしなければならない「仕事をする人々」の数は益々増して来た。一八八一年三月一日、全く予告なく突発した事情の下に帝位に即かせられることになった酒飲みのアレキサンドル三世は、有名なポヴェドノスツェフと共に極端な反動的政治をはじめ、そのために従来ナロードニキの社会的支柱であったブルジョア自由主義者は甚しく畏縮して来た。更に一八八四年に公表された大学規定は大学生のこれまで持っていた学内自治権を奪い「学生生活のあらゆる微細な点まで干渉する学監、副監督、守衛等によって監視され、更に警察の監視の下に置かれるようになった」のである。この事情が、デレンコフの収支を次第に激しく喰いちがわせる。デレンコフは配慮ぶかく明るい色の髯をひねりながら云った。
「何とか考えなけりゃならない」
 そして、罪ありげに微笑し、重々しく溜息をついた。ゴーリキイは、デレンコフが負っている重荷を見た。彼は一度ならず、いろいろな云いまわしでデレンコフに訊くのであった。
「何故そんなことをするんです?」
 デレンコフはその答えとして民衆の苦しい生活について「本からとって来たように[#「本からとって来たように」に傍点]、不得要領に答えた」
「でも――みんなは知識を望んでいるんですか?」
「どうして。勿論さ! 第一、君は望んでいるだろう?」
 そうだ。ゴーリキイは――望んでいた。
 だが、この陰翳に富んだ、逆説的な分子のこもった会話は、当時のゴーリキイが民衆、学生、デレンコフや彼自身の関係に対して抱いていた複雑な感情の深淵を何と微妙な閃光で我々に啓いて見せることであろう。
 これは、ゴーリキイが、セミョーノフのパン焼工場で、一日十四時間ずつ労働し、肉体的に苦しく、道徳的には一層苦しい生活の時代のことである。冬になって、ヴォルガの稼ぎのなくなったゴーリキイが「外側から犇々《ひしひし》と鉄格子で覆われ」「日の光は粉の埃で一面の窓硝子をとおしては届かない」地下室に降りて行った時、彼にとって「それを見、それを聞くことが既に必要となった人々との間には『忘却の壁』が生い立った。」「私の大学」の中で、ゴーリキイは自制した悲しみをもってこの頃を追懐している。「彼等の中の誰も私のところに、仕事場に来てくれるものはなく、私は一昼夜十四時間も仕事をしているので、普通の日にはデレンコフの所へ行くことが出来なかった。休みの日には或は眠り、或は仕事仲間と一緒にいた。」と。
 生活のためパン焼工場へ行った十七、八のゴーリキイが、既に彼等に会わなかった前のゴーリキイではなくなっているという重大な事実、及び暗愚と無恥との中におしこめられて精神的に孤独な境遇に暮すことがゴーリキイにとって、従前とは異った苦痛となっていることなどを不幸にも彼の教師達[#「教師達」に傍点]はちょっとも洞察しなかった。
 ロシアの民衆の中に蔵され
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